【城跡を歩く】多賀城跡 宮城県仙台市のほど近く、貴重な古代の繁栄の証が松島から続く大地に刻み込まれています。古代の城跡で、九州以外の地にある特別史跡は、多賀城のみで、極めて貴重です。
今回訪れる多賀城跡は 極めて貴重な城跡です。 ここは国の特別史跡です。 史跡の中でも「特別」がつくと、 文化財でいう「国宝」に匹敵する 価値があるものと考えてよいと思います。 さらに、城跡の特別史跡は、 日本全国に14カ所しかありませんが、 九州地方以外の古代の城跡は、 この多賀城跡だけなのです。 国府多賀城駅を起点に、 多賀城跡を一周してみることにします。 日本における古代とは、 奈良時代と平安時代を指します。 8世紀から12世紀ですね。 この時代に多賀城周辺は、 東北地方の政治・軍事の中心地として栄えました。 律令制により国を統治しようとした中央政府が、 朝廷の勢力の範囲外にあった蝦夷を 支配下に収めるための拠点とし、 国府も置かれました。 まずは駅の西側に広がる台地に 自然と導かれます。 ここは館前遺跡です。 建物跡から、政庁に匹敵する格式の高い 建物が存在していたことがわかりました。 都から赴任した国司が住んだ 館跡と推定されています。 こちらはまだ多賀城の外郭の外側ですが、 特別史跡の一部として指定されています。 芝生の広場に出てきました。 この先に見える建物の手前は、 「あやめ園」として整備されています。 無料の駐車場とトイレが設置されていますが、 その先に台地が見えてきました。 北方の松島方面から続く丘陵の南端になります。 ここより南は、 広々とした仙台平野が広がっています。 この台地の上にまずは登ってみましょう。 造成された「あやめ園」を見渡すことができますね。 大正天皇の即位記念で植えられた 松林の風致林の向こうに 朱塗りの建物が見えてきました。 復元中の外郭南門です。 かつては、この左右に約900メートルの 築地塀があったそうです。 ここから北側は、 いよいよ城郭の内部ということになります。 この台地の一角に多賀城碑があります。 奈良時代の762年に建造されたものです。 この多賀城が724年に、大野東人により建設され、 この碑の建造された年に、藤原朝獦により 修繕がされたことが書かれています。 この石碑は、和歌によく使われた歌枕の一つである 壺碑(つぼのいしぶみ)だとされています。
奥の細道によると、芭蕉がこの地を訪れ、 壺碑を実際に目にした際に 涙を流すほど感動したことが描かれています。 傍らには後世の人が建てた 芭蕉翁礼賛碑があります。 あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒 仙台で読まれた句だそうです。 この句にちなんで先ほど見たあやめ園が、 造成されたのかもしれないですね。 南門は完成しているようですが、 左右の築地塀が、 完成まであと少しというところでしょうか。 この立派で広い道路は南北大路です。 幅13メートルもあり、 最終的には23 メートルに拡張されていました。 こちらは暗渠に排水するために作られた 溝を復元したものです。 この多賀城にまつわる 歴史的人物たちを見てみましょう。 万葉集の歌人として有名な大伴家持は、 官人として按察使兼守鎮守府将軍に任ぜられ、 782年に赴任して、 この地で没したとされています。 征夷大将軍に任ぜられ、 蝦夷討伐にあたった坂上田村麻呂は、 801年に目的を果たしました。 その際には、この多賀城を拠点にしていたと思われます。 多賀城は11世紀前半に焼失しましたが、 その後も歴史に登場します。 源頼朝は1189年に奥州藤原氏の征伐を終えた後、 多賀国府を訪れ、陸奥国は、藤原氏の先例に従って 治めるよう、取り決めを行っています。 右側の城前官衙を見てみましょう。 こちらは軍事を指揮する 鎮守府が置かれていたと考えられています。 左右の建物は、柱の位置と太さだけ復元されています。 これらは実際には床張りの建物だったそうです。 今、私が立っている場所には、 土間の建物があったそうで、 左右の建物とは、 役割が違ったと考えられています。 正面が官衙主屋ですが、 構造だけが復元されています。 同時代の建物である 法隆寺の食堂(じきどう)を参考にしているそうです。 屋根は瓦葺だったと考えられています。 この道は城前官衙の中央線の延長線上にあり、 そのまま真っすぐ進むと、政庁の東側の 築地塀跡にぴったり一致します。 さてここが多賀城の中心地、政庁跡です。 当時は100メートル四方の塀で囲まれ、 正面北側に正殿、
その手前東西に脇殿が置かれ、 広場を取り囲んでいました。 この場所は重要な政治に関する決裁や 儀式が行われていたそうです。 周辺は土塁で囲まれていますね。 現在はこのように基壇だけが復元されていますが、 なんと一部の礎石は現物だとのことです。 900メートル四方の外郭で囲まれた中には、 役人だけではなく、工人や兵士も含めて 1,200人が働いており、 その者たちの宿舎も立ち並んでいたといいます。 こちら正殿の北西にある社殿は多賀城神社です。 時代が下って1333 年、建武の新政下で、 後醍醐天皇が、この多賀城に 陸奥将軍府という地方統治組織を置きました。 ここに配属されたのが、後醍醐天皇の第七皇子の 義良(のりなが)親王で、後の後村上天皇です。 家臣と共に、この神社の祭神として祀られています。 多賀城神社から車道を少し北上すると、 今度は多賀神社が現れます。 名前が紛らわしいですが、こちらは滋賀県にある 多賀神社から勧請されてできた社です。 滋賀県の本社と同じく、竹で編んだ箍(たが)を 長寿延命のために、 年齢の数だけ納めるのが習わしだそうです。 六月坂という地区に入ってきました。 発掘調査により、行政を執り行うための 建物群や鍛冶場と思われる住居跡が見つかりました。 多賀神社は元々ここにありましたが、 発掘調査の際に遷座されたそうです。 多賀城の北東の隅に近い場所にやってきました。 大畑地区です。 ここは、多賀城最大の役所建物群があったところで、 (手前は)門があったところです。 さらに東に進むと、東門の跡に近づきます。 復元された幅16メートルの道路には、 小さな石が敷き詰められています。 この東門の左右は土が盛り上げられています。 ここにはそれぞれ櫓が立っていました。 東門から城の外側に出ると、何やらにぎやかです。 陸奥総社宮です。 この日は元旦でしたので、 初詣の参拝者で長蛇の列ができていました。 近くにキッチンカーが、何店舗か出ていたので、 昼食にありつくことができました。 多賀城に戻ってきました。 実は東門跡はもう一つあります。 先ほど見たのは平安時代の跡で、 こちらは奈良時代の東門跡です。 このように柱の下部だけ復元されています。 平安時代の道路の先には、 奈良時代の建築物跡があります。 やはり柱だけが復元されています。 多賀城内で最も大きい建物だそうです。
一体何に使われていたのでしょうか。 地元小学校の体験学習場。 特別史跡の中で贅沢ですね。 畝が見えますが、 古代の野菜を耕作しているのでしょうか。 この辺りから作貫地区です。 ここにも役所建物跡があったそうです。 展望台がありました。 松島丘陵の末端ですね。 あやめ園前に出てきました。 アヤメ、カキツバタ、ハナショウブが、 五月下旬から六月いっぱいまで、 順次、花を開くそうです。 この場所が、多賀城の築地塀の南東の隅で、 低湿地だったそうです。 発掘調査では、大きな排水用の木の樋が 出たそうですけれども、今は埋め戻されています。 ちょうど一周してまいりました。 この多賀城跡は見どころが点在しており、 ゆっくり散策するのにうってつけの場所です。 広く、見晴らしの良い場所も多く、ベンチもあるので、 お弁当を持って子供連れで訪れるのもおすすめです。 本日、紹介したコースは、ゆっくり歩いても 一時間ちょっとあれば一周できると思います。 仙台からもすぐ近く、全国的にも極めて貴重な 古代の城跡をあなたも訪れてみませんか。
多賀城跡は、貴重な特別史跡です。古代の城跡なので、戦国時代の山城とは、かなり趣が異なります。比較的平坦な丘陵上の900m四方の郭の中に、数多くの建築物の遺構が残されています。歩道や案内板も豊富に整備されており、気持ちよく歩くことができます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【タイムコード】
◆多賀城碑(壺碑) : 2:57
◆城前官衙 : 6:03
◆政庁跡 : 7:16
◆多賀城神社 : 8:47
◆東門跡 : 10:36
◆展望台 : 12:53
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【多賀城跡 紹介】
◆仙台からJRで10分余りの至近距離にあります。城域は、整備が行き届き、駐車場やトイレも設置され、ベンチや東屋もところどころにあります。気軽に訪れることのできる場所です。ここに縁のある歴史的人物も数多く、この辺境の地から遠い都に思いを募らせた古代人の気持ちに思いを馳せてみるのも一興かと思います。
◆国府多賀城駅の南側には、東北歴史博物館がありますので、そちらも見学することをお勧めします。(当日は、元旦だったため、閉館でした。)
◆今回、訪れませんでしたが、博物館の東側には、多賀城廃寺跡があり、ここも含めて特別史跡に指定されています。
◆近くには、仙台市内や松島、塩釜神社など、観光地が多く、様々な組み合わせで楽しむことができると思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【チャンネル】
@歩いて旅するにっぽん 城跡を歩く
歴史を紐解くことによって、往時の武士の息遣いや緊迫した雰囲気が感じられる場所を徹底リサーチして厳選の上紹介しています。
◆運営会社:アスタービジョン株式会社
ウェブサイトはこちら
https://astervision.co.jp/
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【撮影機材】
◆iphone13Pro
◆GoPro HERO10 Black
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【編集ソフト】
◆PowerDirector 365
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
動画の一部で、地理院タイルに地名・アイコン等を追記した画像を利用して配信しています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
#多賀城跡 #多賀城碑 #壺碑 #坂上田村麻呂 #政庁跡 #古代城跡
1 Comment
多賀城跡遺跡ではないと考えられます。何故なら多賀は名取以南十四郡から離れた所に多賀があった事を大伴家持が言上しています。
多賀城碑には虚偽が記されています。神亀元年に大野東人は按察使や鎮守将軍に任ぜられていません。依って、多賀城碑は偽物と考えられるのです。
偽歴史を拡散しないで下さい。
本当の多賀東北東北自動車道長者ガ原パーキング付近にあったと考えられます。貞観の大津波は海口か百数十里(約50~30Km)の多賀城下まで押し寄せ、現在の大崎平野は被災し百姓の多くはにげだし、律令支配も放棄されてしまった。
六国史の何処にも多賀城を国府とする記述はありません。多賀国府という文言は東鑑文治五年八月の条が初出です。江戸時代の東鑑研究者が虚偽を付加したものと考えられます。
東北の歴史は実在しなかった多賀国府説により歪められたのです。江戸時代には金印、多賀城碑などの捏造が横行したようですね。