【鳥羽城】鉄甲船を操る戦国最強水軍「九鬼嘉隆」が最後を遂げた島を望む
1578年11月当時最強と呼ばれていた モーリス軍はとんでもないものを目にし ますそれは海に浮かぶ巨大な船織田軍の 鉄鉱線ですそれまでの船とは比べ物になら ない大きさ表面に貼られた鉄の 板飛び移って攻撃することもできず投げ 法力も効かず6隻の鉄鉱線の前にモ水軍は 粉砕され ます有名な木川の戦い ですこの鉄鉱線を建造し戦った武将が久喜 吉孝今回のお話の中心となる人物です区吉 しは島の国現在の三重県の出身です織田信 長の伊勢攻めに加わりその後家臣となった ようです海をよく知り水軍を率いての戦い が得意小田の勢力拡大に貢献し島の国の 領有を認められ ます信長の守護は豊秀吉の配下にここでも 水軍を率いて九州閉廷小田原抜などに 山人朝鮮出平では水軍の総大将を務めます 戦国一の水軍の賞として後に海賊大名と 呼ばれた区 吉孝その巨匠を鳥羽に定めたのは1594 年頃と言われてい ます鳥羽城とは一体どのような城だったの でしょう [音楽] か島半島の先に位置する鳥羽の港は水は 深く波は穏 古くは泊の裏と呼ばれ伊勢神軍が管理する 港でもありまし た現在は水族館などが並ぶ観光地クルーズ 線やベリーが行きかう賑やかな風を目に することができ ますそんな街並を見下ろすように細長く 伸びる 高台この上に鳥羽場がありまし た 近鉄島線の線路の 隣三の丸広場が鳥城への入り口 です石作りのブが白好き歴史好きの気持ち を高め ます釘の家紋山頭右ども絵がかっこいい です ね 5つある説明看板のうち真ん中のところは パカッと開いてパンフレットが取れるよう になっていますありがたいです ねそして頭上に伸びるだんだんの 石垣当時のものではないと思いますが下 から見上げるとその様子はまさに白 跡 夜にはライトアップされるのでしょうか 今回見ることができないのが残念 です階段を登ったところが白山公園家臣の 屋敷などがあったと考えられてい
ます他の入り口からもここに登ってこ られるようになっており白跡をイメージさ せる石積に手の込み用を感じ ます1番目立つのがハートとばの モニュメント城の後にこんなものと思う 一方誰もがついつい撮影してしまう不思議 なもの です [音楽] 後ろに見える海の景色が素晴らしいから でしょう [音楽] か1段上が鳥羽城の中心部分本丸があった ところ です坂を登っていくと石垣が見えてきます この辺りの石垣が昔の飛ば状の様子を1番 残しているとの ことゴツゴツした石をそのまま積み上げた ような荒っぽい雰囲気ですが角の部分は 長い石をしっかり交互に使ってあり ますよく見ると石を割って合わせているの が分かり ます鳥羽状は江戸時代まで使われていたの でいつのものかは私には分かりませんただ 茎時代には石垣があったようなのでもしか すると茎をしたかもこの石垣を眺めたのか もしれません [音楽] ね石垣の上の段が 本丸歩いていくと足元にいくつかの看板が 見え ますこれは天主のあった場所に立つ 看板三層の天主が昔はここに立っていたん ですね奥には5点そして 井戸訪れる方みんなが加で低い看板に目を 向ける不思議な空間です ここがまったいらなのは学校の皇帝だった からおそらく鳥羽条本丸として使われてい た頃にはもっと複雑な気腹があったの でしょう今ではその様子を知ることはでき ませんがここからの海の景色は天主に登れ ばより広く見えたの でしょう鳥城は海の近くの丘の上に築かれ ておりまるで海に浮いてるように見えまし たそのため浮城などと呼ばれていたそう です当時この丘は島のように突き出してい たのです ね面白いのは大手が海側にある ことこちらが正門だったということで さすが海賊大名の城です 現在は水族館があるのでその様子は分かり ませんがもし残っていたら全国的にとても 珍しい姿を見ることができたの でしょう陸側の部分はどのようになってい たのでしょうかこちらにはしっかりと水堀
が設けられ白江の入り口は3箇所に限定さ れていましたこの昔の堀の跡が分かる場所 がありますので行ってみ ましょうここは鳥城の北星明川です城が あった頃も流れており外堀の役割を果たし ていまし た相葉は白への入り口の橋がかかっていた 場所下に見える石垣は昔のものだという こと です外堀は途中で向きを変え現役所のある 方向へ続いていましたおそらくこの付近は 水堀によって通れないようになっていたの [音楽] でしょう市役所の裏側にある賀屋式跡の 石垣少し高い場所にあり向かいのヤの狭い 空間に武屋敷や街がありました 1本通りを外れると昔の街並の雰囲気を 想像することができ ます1597年区吉は家督をこの森高に 譲り隠居し ますしかし時代の流れは海賊大名に平穏な 暮らしを続けさせてくれませんでし た1600関ヶ原の 戦い釘森高は徳康引きいる軍に味方したの に対し吉孝は石田光成を中心とする軍に つきます親子が東軍西軍に分かれたのは どちらが勝っても家を残すためと言われて い ますまた吉孝が隠居したのはある争いでの 家康の判決に不満持っていたからとも言わ れており個人的な恨みもあったのかもしれ ませ ん区をしは守りの少なった鳥城を奪い さらに水軍を繰り出して会場を 封鎖これにより成の手によって伊勢の他の 城が攻略されますところがこの天下分け目 の決戦はわずか1日で軍の勝利によって 集結 この知らせを受けた区をしは鳥城を退去し 近くの島に逃げ込み ます一方東軍に味方した森高は父吉孝の 除名丸を行います森田自身もこの戦いで 先行を上げておりまた他の大名の取りなし もあって康から名の許しを得ることに成功 します森高は吉のに吸収を出しますところ がその知らせを聞く前に吉孝は服して しまいます家の存続には自分が生きていて はいけないと考えたのでしょう59歳でし た区をしが最後の時間を過ごした島鳥羽城 のすぐ近くにあり ます信長秀吉を海から天下人に押し上げた 海賊 大名自らが気づいた鳥城を望む島始まりも 終わりも海に来た武将だったの です
あ
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1578年11月。当時最強と呼ばれていた毛利水軍はとんでもないものを目にします。それは海に浮かぶ巨大な船。織田軍の鉄甲船です。それまでの船とは比べ物にならない大きさ。表面に張られた鉄の板。飛び移って攻撃することもできず、投げ焙烙(なげほうろく)も効かず、六隻の鉄甲船の前に毛利水軍は粉砕されます。有名な(第二次)木津川口の戦いです。
この鉄甲船を建造し戦った武将が九鬼嘉隆。今回のお話の中心となる人物です。九鬼嘉隆は志摩の国、現在の三重県の出身です。織田信長の伊勢攻めに加わり、その後家臣となったようです。海をよく知り水軍を率いての戦いが得意。織田家の勢力拡大に貢献。(伊勢長島の一向一揆鎮圧や木津川口の戦いで活躍し)し、志摩国の領有を認められます(兄の子・澄隆より当主の座を譲られる?)。信長の死後は豊臣秀吉の配下に。ここでも水軍を率いて九州平定、小田原征伐などに参陣。朝鮮出兵(文禄の役)では水軍の総大将を務めます(船大将 慶長の役は出陣していない)。戦国一の水軍の将として後に「海賊大名」と呼ばれた九鬼嘉隆。その居城を鳥羽に定めたのは1594年頃と言われています。「鳥羽城」とは一体どのような城だったのでしょうか。
2 Comments
UPお疲れ様です!
村上武吉とならぶ水軍大将の城ですね。
残念なことにここも学校施設になっていたとか。でも日本一眺めの良い学校だったかもしれませんねw
鳥羽は伊勢湾の出入り口の要所。また今でも渥美半島の伊良湖との間にフェリー便(乗ったことあります)があり、縦の航路と横の航路の交差点でもあったのでしょう。九鬼家は石高は少ないですが水運の利益が莫大だったでしょうね。
「世界のミキモト」も鳥羽の目玉でしょうが、九鬼水軍と鳥羽城ももっと認知されて欲しいですw
次回も楽しみにしています!
豊田は守隆に〇されましたとさ・・