出雲 阿国(いずものおくに)の像 島根県出雲市大社町修理免735-5 #出雲 #阿国 #像 #島根県 #出雲大社 #歌舞伎 #かぶき踊り #芸能 #巫女 #名所 #有名人 #歴史 #観光 #日本
出雲 阿国(いずものおくに)の像 島根県出雲市大社町修理免735-5 #出雲 #阿国 #像 #島根県 #出雲大社 #歌舞伎 #かぶき踊り #芸能 #巫女 #名所 #有名人 #歴史 #観光 #日本 20240504 @akibingo
出雲大社から神門通りを下り大鳥居・宇迦橋の先交差点の島根中央信用金庫前に「出雲阿国の像」があります。出雲阿国は安土桃山時代から江戸時代前期の女性芸能者で、ややこ踊りを基にしてかぶき踊りを創始したとされ、京でも興業を行ない四条の小屋や伏見城にも舞を振舞ったと言われています。そい言えば同じ銅像が四条大橋東詰にありますよ。現在の歌舞伎の先駆者といった存在なのでしょうね。京都四条と出雲にこの像が建っているのも納得です。京都の彫刻家山崎正義さんの作品です。
「出雲阿国」(いずものおくに)は安土桃山時代から江戸時代への過渡期に各地を巡業し、「阿国歌舞伎」(おくにかぶき)という踊りを広めた女性です。「出雲大社」(いずもたいしゃ:島根県出雲市)の巫女であったと伝えられますが、京都に来るまでどのような人生を送っていたかは謎につつまれています。しかし、出雲阿国の踊りが江戸時代初期の人々に与えたインパクトは絶大で、この踊りはすぐに全国に広まり、やがて日本が世界に誇る伝統芸能「歌舞伎」(かぶき)を生み出す原点になりました。
江戸幕府が誕生した1603年(慶長8年)、京都の路上で奇抜な格好をして踊る「出雲阿国」(いずものおくに)という女性が話題になりました。当時、奇抜な格好をして社会の常識に反抗する行動を「傾く」(かぶく)と言い、出雲阿国の踊りは「かぶき踊り」と名付けられます。すると、かぶき踊りを真似て同じような踊りを披露する一座があちこちに登場。この芸能は「お国歌舞伎」(おくにかぶき)と呼ばれ、ブームは全国に広がります。その後、江戸幕府から何度も禁止されますが、この芸能を残したいと願う人々の努力と工夫によって形を変えながら継続し、やがて日本を代表する芸能である「歌舞伎」(かぶき)へと発展していったのです。
出雲 阿国(いずも の おくに、元亀3年(1572年) – 没年不明)は、日本における安土桃山時代、江戸時代前期の女性芸能者。ややこ踊りを基にしてかぶき踊りを創始したことで知られており、このかぶき踊りが様々な変遷を経て、現在の大歌舞伎とチンドン屋が出来上がったとされる。
一般的には、彼女による「阿国歌舞伎」の誕生には名古屋山三郎が関係しているとされ、「山三郎の亡霊の役を演じる男性とともに踊った」といった解説がなされることが多い[3]。 お国が演じていたものは茶屋遊びを描いたエロティックなものであり、お国自身が遊女的な側面を持っていたという可能性も否定できない。
なお、現在では「出雲の阿国」「出雲のお国」と表記されることが一般的であるが、彼女の生存時の歴史資料にはこのような表記は発見されておらず、これらの表記は、口伝を筆記したもの、あるいは、17世紀後半以降、彼女が伝説化してから広まったものと考えられる[5]。
生涯
京都国立博物館収蔵『阿國歌舞伎圖屏風』六曲一隻、紙本金地著色(出雲阿国を描いた最古の屏風絵)。
阿国歌舞伎発祥地
出雲国杵築中村の里の鍛冶中村(小村)三右衛門の娘であり、出雲大社の神前巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったとされている。
慶長5年(1600年)に「クニ」なる人物が「ヤヤコ跳」を踊ったという記録(時慶卿記)があり、この「クニ」が3年後の慶長8年(1603年)に「かぶき踊」を始めたと考えられている。
『当代記』によれば京で人気を得て伏見城に参上して度々踊ることがあったという。 当初は四条河原の仮設小屋で興業を行っていたが、やがて北野天満宮に定舞台を張るに至った。
北野天満宮の祠官松梅院の僧禅昌は、阿国の芸と人物に対する最も理解のある有力な庇護者であった。
慶長8年(1603年)5月6日に女院御所で踊ったという記録があり、文献によって踊ったものの名称が「ヤヤコ跳」「ややこおとり」「かふきおとり」と異なっている。この事と記述の内容から考えて、慶長8年5月からあまり遡らない時期にかぶき踊というあらたな名称が定着したと考えられている。内容面でもかわいらしい少女の小歌踊と考えるややこ踊から、傾き者(かぶきもの)が茶屋の女と戯れる場面を含むようなものに質的に変化したと考えられている。
お国のかぶき踊りは、名古屋山三郎役の男装したお国と、茶屋の娘役として女装したお国の夫・三九朗[9]が濃密に戯れるものであった。一座の他の踊り手も全て異性装を特徴としており、観客はその倒錯感に高揚し、最後には風流踊や念仏踊りと同様に出演者と観客が入り乱れ熱狂的に踊って大団円となった。 このように、お国がかぶき踊りを創始するに際して念仏踊りを取り入れたとする記述が一般向けの解説書や高校生向けの資料集により一般的であるが(山川出版『詳細日本史図説』、『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』)、この従来説に対して、ややこ踊の一座やお国が念仏踊りを踊った可能性は低いと主張する者もいる。
阿国には夫の他に子供が存在していたといわれている。
阿国は慶長12年(1607年)、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息が途絶えた。慶長17年4月(1612年5月)に御所でかぶきが演じられたことがあり、阿国の一座によるものとする説もある。
没年は、慶長18年(1613年)、正保元年(1644年)、万治元年(1658年)など諸説あり、はっきりしない(二代目阿国がいたのではないかという説もある)。出雲に戻り尼になったという伝承もあり、出雲大社近くに阿国のものといわれる墓がある。また、京都大徳寺の三玄院にも同様に阿国のものといわれる墓があり、夫であった名古屋山三の墓と共に並んで供養されている。なお、旧暦4月15日(現在では新暦4月15日とも)が「阿国忌」といわれている。
阿国の与えた影響
お国一座は京都での人気が衰えると江戸を含め諸国を巡業したが、 かぶき踊は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、わずか10年あまりで全国に広まった。 遊女歌舞伎は男装した遊女と遊女の猥雑な掛け合いに、お国一座にはなかった三味線による囃子が付いたもので、お客にとっては遊女の品定めの場であった。
寛永6年(1629年)、江戸幕府が、風紀紊乱の取り締まり、寺社で既に徹底されていた女人禁制との整合性、および、江戸時代になって制度としても全面的に強くなり始めていた男尊女卑(女性差別)の傾向から、女性の芸能者が舞台に立つことを禁止したとされる。
「見せる」踊りの誕生
戦乱が続いた室町時代後期、武士、農民がお盆にみんなで楽しんだ「風流」(ふりゅう)という踊りがありました。もともとは日本全国へ広がった大戦乱「応仁の乱」(おうにんのらん)で亡くなった人の霊魂を慰めるために行われた仏教儀式でしたが、やがて規模が大きくなり、お盆に着飾った男女が歌を歌いながら踊るというお祭りへと発展します。
しかしこれはあくまでも大衆が参加し、自分で「踊る」ためのものでした。一方、1580年代に数名の幼い子どもが、歌に合わせて踊る「ややこ踊り」という芸能が流行。これは、日本で初めて誕生した「見せる」ための芸能でした。
今日、新潟県柏崎市に「綾子舞」(あやこまい)という伝統芸能がありますが、その特徴などから見て、これはややこ踊りが今日に伝えられたものと考えられています。記録では、1600年(慶長5年)に「雲州のヤヤコ跳」(うんしゅうのややこおどり)という一座が、宮廷でややこ踊りを披露。そして、この一座の踊り手として記されていた「クニ」こそが、出雲阿国だったのです。
常識外れの装い
出雲阿国
1603年(慶長8年)になると、出雲阿国の一座は、京都の四条河原に仮設の舞台を作り、これまで誰も見たことがない踊りを披露します。
特に変わっていたのは、出雲阿国の装い。女性でありながら、男装して長い日本刀を肩に担ぎ、首にはクルス(十字架)のネックレスをかけていました。出雲大社の巫女であるはずなのに、キリスト教の十字架をぶらさげ、死者の魂を慰める仏教儀式の踊りを披露する。
これまで狂言師(きょうげんし:日本古来の芸能である能楽で、狂言を演じた成人男性の俳優)が女装した例はありましたが、女性が男装するというのは極めて異例のことでした。この突飛な演技が、都の人々の心をわしづかみにしたのです。
常識外れの演出
さらにユニークなのは、出雲阿国の演出。男装の出雲阿国が「猿若」(さるわか:道化役の若者)を連れて町の茶屋を訪れると、茶屋の娘がなよなよとした様子で出迎えます。しかし、この茶屋の娘、実は体格の良い男性が女装した姿。
男装した出雲阿国と女装した男は酒を酌(く)み交わすと、一緒に小唄を歌い、官能的な振り付けの踊りを披露。その間に猿若は2人の隣で独り芝居をしたり、獅子踊りをしたりと、即興で舞台を盛り上げました。これまでの常識では考えられない演出に、当時の人々は大喜び。
すぐにこれを真似て同様の舞台を見せる一座が各地に生まれ、クニを名乗る踊り子が何名も出現。こうして京都から一気に広がった踊りは「阿国歌舞伎」と呼ばれました。
傾きから歌舞伎へ
戦国京都のアンチヒーロー・傾奇者
落とし差し
落とし差し
阿国歌舞伎の「かぶき」とは、「傾奇者」(かぶきもの)から生まれた言葉。この頃、京都には傾奇者と呼ばれる荒くれ者達が出没していました。
彼らは社会からはみ出した横着者で、徒党を組んで夜な夜な悪事を働いたのです。しかも、変わっていたのは彼らの服装。
女性のような豪華で華やかな模様の衣装を身にまとい、水晶の数珠や十字架のネックレスを首にかけ、長い日本刀を落とし差し(日本刀の柄が胸に付くほど縦にして帯に差す)にして、街中をのし歩いたと言われます。
しかし京都の人々は、傾奇者に対してある種の憧れを持ち、アンチヒーロー(悪人であるのに、多くの人から憧れを持たれる存在)でもありました。
人々のアイドルになった出雲阿国
そして当時、彼らのように、従来の常識的な価値観に反抗し、異端のふるまいをすることを「傾く」(かぶく)と言いました。傾奇者とはつまり「傾く者」という意味。そこに出雲阿国が登場し、傾奇者の装いを真似たうえに、女性と男性が倒錯する(正常とは反対の行動)という、凝った演出でたちまち京都の人々のアイドルになったのです。
そして「かぶき」に「歌」(うた)・「舞」(まい)・「伎」(うごき)を見せるという漢字が当てられ、「歌舞伎」と称されるように。今や日本を代表する伝統芸能である歌舞伎が、実は約400年前に京都の河原で演じられた奇妙な踊りから始まったと考えると、歴史の奥深さを感じます。