(82)【日本一周修学旅行】郡山はなぜここまで発展したのか?《福島》
おはようございます 本日は5月22日の木曜日 現在地は福島県です 今回は郡山から出発していきます 福島県の県庁所在地は福島市ですが 現在僕がいるこの郡山は 福島よりも人口が多い町です 駅前の道を進んでみても たくさんの人が住んでいるし 商業も発展しているということが
分かってきます 日本中全ての都市には歴史があり その歴史というのは たまに日本史として学校で勉強した
知識と繋がっています この郡山市もその例の1つです ということで今日は この郡山市がなぜこんなに発展したのか という理由を歴史的な観点から
見ていこうと思います ということで やってきましたのが 開成山公園です 結構 整備された公園なんですね さて知らない土地にやってきた時に 僕がまずやることというと 地図を見ることなんですが 現在地は郡山市街地がここにありまして ほぼ中心あたりですね 少し東側に 南北を縦断するような形で 新幹線と在来線が通っており ここがさっきいた郡山駅です そもそも郡山がどこにあるか分からない といった方のために このような広域の地図をお見せしますが 見て分かるかな? 福島県のほぼ中心辺りにある都市です 交通の要衝ですね それで高低差が分かりやすい地図で 現在地を確認してみると 黄色いんだ 結構この周辺自体が 高い位置にあるんだ 周辺見ると 東にも山脈があって 西にも山脈がある だからこの辺りは盆地のような
構造をしておりまして 現在いる公園はこの辺り 東の方を見てみると ここに川の跡がありますね 川は何の川だろうと思って見てみると 阿武隈川か 阿武隈川が流れてるのはこの周辺で 盆地の東側の端っこを
通っているんだな 多分この東の方が 土地が低いんでしょうね となりますと 水っていうのは 低い位置から高い位置に
流れることはありませんので こっちの低い位置にある水を 西側の平野に持ってくる ということはできなかったようです そこでお見せしたいのが こちらの古地図です この話から分かります通り この古地図どこの地図かと言います これ1番明るいのか 言いますと 郡山の地図ですね ここに北と書いてありますので 我々の感覚からすると こういう風に見た方が
分かりやすいかなと思います 川が流れていた場所は 川なかったのか? もしかして そういうこと? 阿武隈川も後から移されたのかな? 周辺見てみますと ここに不毛って書いてあったり ここに不毛って書いてあって ここに不毛 もうこの周辺は不毛の土地であった ということがこの古地図からも
分かると思います つまり ここは 農業ができなかった土地なんですよ 川がなかったとか
そんなことあるか?と思って ちゃんと見ていたん ですが ここに読み方わかんないんですが こわらだか おわらだ か そういった村がありまして ここに 郡山村って書いてあるんですよ どうやら「こはらだ」と読むそうです 現在も 地名は残っているようで 僕がいる場所の これは南東の方角ですかね こっちの方に 少しそのような地名が
残っている地域があり 先ほど見ていた郡山っていうのは ここなので さっきの地図では この川が見えていなかっただけで もしかしたら この郡山と小原田村の こっち側 東側の方にあったのかもしれません 多分 あったんでしょうね でも何にせよこっちの方が 土地が低いので 水をこっち側に持ってくることは
できなかった だからこの周辺は 不毛の地であった ということは地図から見てとれます しかし現在の郡山周辺を歩いてみると さっき見た通り 商業も発展しているし たくさんの人々も住んでいた 何よりこの画面上に写っているように たくさんの木や草が生えているのが
分かります そして公園の中には このようにたくさんの水をたたえた 湖もあり 現在は 水に困っているといった
印象はありません そしてこの公園を歩いていると 塔のようなものが見えてきまして 上には銅像が付いてますね そして下の方にも たくさんの銅像があるようです こちらの銅像は 一体何なのかというのを見に来てみると あそこに名前が書いてあります 開拓者の群像 といった名前だそうです もう大体分かってきたかなと思いますが この郡山という不毛の地は 開拓によって このような立派な
土地に変わっていったんです この郡山が水がないことで 不毛の地であったということは さっきから
お話ししている通りなんですが この銅像の近くに寄っていきますと 日本の歴史 教科書ですね このような教科書に載っている人物が ここに立っているのが分かってきます この髭が特徴的な人物は 大久保利通です 大久保利通というのは
誰かと言いますと 爆末から明治初期にかけての
人物 でして 彼は薩摩藩出身 今で言うところの
鹿児島県あたりで生まれまして 日本の政治を引っ張っていく そのような人物となったものです 日本の歴史にあんまり興味がない人でも 日本の初代総理大臣は誰ですか という風に聞かれたら それは伊藤博文ですよ という風に答えれると思います 伊藤博文というのは 初代総理大臣として知られていますが この大久保利通は その伊藤博文の前に 日本のリーダーをしていた人物です じゃあなんで大久保利通は 総理大臣にならなかったのか
と言いますと 簡単です 総理大臣という
役職がなかったんですね 分かりやすく言ってしまえば 0代目総理大臣が大久保利通 といった感じでしょうか 江戸幕府が倒れて開国した
日本というのは 西洋列強の知識や技術を学ぶために アメリカやヨーロッパに
使節団を送ります それが岩倉使節団です この岩倉使節団 この写真有名だと思いますが この中に大久保利通が載っています 大体 勘違いされやすいのが 5人しか行ってないという
わけじゃないんですよ もっとたくさんの人々が行っていて そのリーダー的な存在が
この5人だったというだけなんですね 大久保利通は親友の西郷隆盛に 日本を任せて 世界の国々を見て周りました その中で彼は 日本を強くするためには 日本の産業を強くしなければならない という思いを強くしていきます 当時の日本の社会問題となっていたのが 江戸幕府が倒れたことにより 武士身分だった人々が 職を失っている状態 これをなんとか解決しなければいけない という問題もありました そこで登場するのが この郡山です ここには 安積原野の開拓は この地より始まる という風に書かれております こっちには ちょっと説明が書いてあるんですが 読んでみますと この周辺は 明治の初期頃に 豊かな商人が結成した 開成社といった会社がありましたと そして 士族授産 これはですね さっき言った 武士身分の人々に 職を与えるといった問題点ですね 目的とした 明治政府直轄の大規模開拓により 太古以来の 安積原野が ことごとく開拓された と書かれています つまり この郡山周辺の原野 安積原野を開拓するという事業は 明治新政府が始まって
すぐに行った大事業であり これによって職を失っていた武士を 開拓に動員して 職を与えることもできるし 郡山の水がなくって不毛な土地 といった問題点も
解消できるというわけです しかしこの周辺を開拓すると言っても 水がないとどうにもならないんですよ ということで注目しましたのが この西側の方にあります 猪苗代湖です 当時この猪苗代湖の水というのは 全部が西の方向に流れていきました こっちの方ですね なので すぐ近くにあるのに 東側の郡山には水がないということで 郡山の人々は この猪苗代湖の水を ずっと羨望のまなざしで見ていました ここから水をこちらに
引くことができれば この郡山も たくさんの作物を
作ることができる土地に 変貌するだろうという風に
考えていたんです これを明治新政府は 大事業としてやってのけます この公園の すぐ西側には このような神社が見えてくるんですが こちらの神社は 何という名前かと言いますと 開成山大神宮といった名前です 横には 昔の開成山大神宮の写真もありまして 未来を開いた1本の水路 大久保利通 最後の夢と開拓者の奇跡 郡山 猪苗代という風に書かれています さらに横を見てみると 東北のお伊勢さま 開成山大神宮 御才神は天照大御神 その横を見てみたら 豊受大神も そして神武天皇の御霊も祀られている ということが見えてきます 御才神や通称などから分かります通り この神社は伊勢神宮と
関連の深い神社です 明治新政府の大事業が ここで行われるという風になりますと たくさんの人々がここに
集まっていきます 職を失った武士とか いろんな人がやってきたんですが そのような人々の寄り所として この現在の三重県にあります 伊勢神宮から 天照大御神の御霊を分霊し ここに祀ったというのが この神社の創建 この当時 伊勢神宮の分霊を
許されたのは この場所だけです そのような話を聞くと めちゃめちゃすごい場所だということが 分かってくるでしょう この開成山大神宮の周辺から 猪苗代湖から水を引いていく という一大事業が始まっていきました 今回の旅行で
伊勢神宮にも行きましたが 伊勢神宮に入っていく際に 川を渡ったと思います あの川の名前が五十鈴川というんですが この開成山大神宮の目の前にも 湖がありましたね そもそもこの湖自体が 明治新政府の開拓事業によって
作られた湖であり 伊勢神宮の目の前を通っている 五十鈴川にちなんで この湖は五十鈴湖と名付けられています このように遠いところから
水を引っ張ってきて その土地を豊かにしていく事業 というのを疏水事業と言いまして おそらく日本で1番有名な疏水事業は 琵琶湖疏水ですが あれよりも前に この周辺の疏水事業というのは
行われています つまり琵琶湖疏水というのは この郡山周辺で行われた疏水事業から たくさんのことを学んだ上で
行われた事業なんです この公園のすぐ近くに 周辺で行われた疏水事業について 学ぶことができる場所 というのがありますので そちらに向かっていきます 公園の駐車場を出て すぐ最初にありますこの信号を 右折します 右折して見えてきますのが 開成館です いいですね しっかりと この疏水事業が 整備されていますよ ここにいるのが大久保利通 こっちの方見てみたらね その関連する文化財が載っています こちらには 安積疏水ゆかりの地 といった地図もあり 文化財が載っている感じなんですが この猪苗代湖から引いていった
水というのが この青い線ですね ずっと流れていきまして 現在僕がいるこの盆地に注いでいく といったことが
地図で分かるようになっています 郡山市開成館 ここでは 郡山市発展の礎となった 安積開拓 安積疏水開さくの歴史に触れることが
できます いいですね 内部は撮影禁止ですが ぐるっと回ってきました これ僕柵の手前側から撮ってるから
多分大丈夫と思うんで ここから説明しますと こちらにありますのが 書いてあるな あそこ 開拓入植者が住んでいた場所ですね だから実際に労働していた人々は このような建物に住んでいまして 奥の方には 見えるかな? 官舎という風に書いてあるのが
分かるかなと思います つまり 開拓の指示を行っていた人が
住んでいたお家が あれなんですけど ちょっと木によって
見えにくいかと思いますが こっちの官舎の方は 2階建てとなっていまして 結構豪華な造りをしていました だからこちらの 実際に労働していた人と それを指示していた人というのを
見比べてみると 当時の生活というのが
分かってくると思います 奥の方には開成館といった 当時の庁舎があったんですけれど これはちょっとね 震災によって傷がついているとか 壊れている部分があるとかで その修繕作業中 あと数年間かかるという風に
書いてありました それでは開成館を後にして 少し移動していきます 今向かっているのが郡山の南の方向 開拓事業には 職を失った武士が動員された という話をしたと思いますが その痕跡が残っている場所というのが 郡山の南側にあります 多分これは 疏水から引いてきた水が
流れているんでしょうね さてこの周辺が 少し痕跡が残ってる場所なんですが あったあった 僕はここにある水天宮に行きたくて
寄ったので 駐車場使っていいと思うんですが ご覧の通り 水天宮といった言葉や 久留米といった言葉 そして開墾といった言葉が並んでいます 大久保利通は この郡山の開墾を行う という話を
日本全国にお知らせするんですが そのお知らせを聞いた中で 1番最初に郡山にやってきた
武士というのが この福岡県の久留米市 ここには昔久留米藩って言った
藩があったんですが その武士たちでした 久留米の地図を見てみると この久留米市には 水天宮といったですね 神社がありまして こちらが総本宮となっております 遠い九州からこの東北地方に
やってきた武士たちは ここで開拓事業に従事するように
なっていきます その際に自分たちの地元にあった神社を ここに分霊して奉った というのが現在僕がいる水天宮です 結構ね いろんな場所にそういった話は
残ってい まして 東京の方にも 久留米藩のお屋敷があった場所に 水天宮があるみたいな話があるんですが この郡山においては 旧久留米藩主たちが 率戦してこの場所に移住してきた という こともありまして 今回はご紹介しています ちなみに僕は福岡県の
久留米市出身なので 結構親近感を持てるような場所です 久留米藩の人々が この周辺に住んだということで この辺りの地名は 現在も久留米として残っています 地名は歴史を残している といういい例です それでは最後に 疏水によって豊かになった 郡山の土地を見に行って
終わりましょう 郡山の駅から離れるようにして 市街地を進んでいきますと このような場所に到着します 周辺見てみると たくさんの田んぼが広がっており 第一次産業がこの郡山に
根付いているのが 見てとれるでしょう かつてこの周辺が 不毛の地と呼ばれていたなんてことは 現在見ているこの光景からは 想像することもできません この豊かな田園風景の中に 小さな石碑がたてられています ここは現在の 愛媛県にあたる松山藩の士族が 入植していた場所です すぐ近くには大久保神社
と書かれていまして この周辺の発展に
大きく関わった大久保利通 彼を祀っています 大久保利通は
この疏水事業を進めている最中に 紀尾井町周辺で
暗殺されてしまいましたが 彼が完成を見ることができなかった 疏水事業によって この郡山周辺は 大きく発展することができたのです
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#旅行 #日本史 #日本一周修学旅行
23 Comments
郡山の開拓の歴史、面白かったです
水天区 御祭神安徳天皇
郡山でしたね!東北の美味しいものもご紹介ください。よければ私の大好きな会津若松に、ぜひ×4
不毛だった土地からの開拓のやり方、勉強になりました。
久留米の武士達がはるばる郡山へ開拓を行いにいったお話にも興味を引きました。
都会
郡山の開拓の歴史、初めて知る内容ばかりで面白かったです。
技術者としてはオランダ人技師のファン・ドールンという人物が携わっていたようですね。郡山には彼の偉業を称えた銅像があり、太平洋戦争中には銅の拠出を求められたものの、地元の人達がそれを隠して何とか守りきったというエピソードも良かったです。
ぜひ、県庁所在地福島市がなぜここまで衰退したか動画も希望しております
郡山の発展に疎水事業が関係していたことは、恥ずかしながら初めて知りました😂
いつもそうですが、丸竹夷さんの動画で多くのことを学ばさせていただいてます。
これからもどうか安全に気をつけて、我々に配信をお願いします。
当地に住んでいたことがありましたが不毛の地とは知りませんでした
しかも割と最近に開拓されたとのこと
街中は震災後からずいぶんきれいになったようですしとても興味深く視聴できました
面白かったです。うっすら久留米って地名は福岡から開拓に来られた方々が住んだ所とか聞いて育ちましたが
今回いろいろはっきり知れて良かった。久留米市とは今も姉妹都市ですもんね
郡山住民です。郡山市の開拓歴史を、実写とともにとても分かりやすく、解説していただきましてありがとうございます。久留米ご出身とは私も感慨深く思いました。久留米のご先祖さまのお陰で、こうして暮らせております。
すごく丁寧な動画です。
郡山の年配者が、〜ばい。〜だばい。
と言うのは、久留米藩の名残とも言われてますよね。
確かに、郡山周辺だけが使う方言です。
86年から92年まで郡山市久留米に住んでました まだ4号バイパスがまだ半分しか開通してなかったです 開成山は自転車で行ってました
イトーヨーカドーもその頃にできましたね
郡山市にはもう一つ池屋敷があります 菜根屋敷の敷地内に五百淵山の敷地内の小学校に通ってましたね😊
水天宮は夏休みにはラジオ体操したな あとは運動できる場所もありますよ
地元民です。すごい面白いし勉強になりました!有難うございます!
福島市民だけど
さすがに福島県の歴史は一通り習ったぞ
安積疎水の話とか移住民のおかげで方言が独特というのは福島県民ならマストの知識
郡山は美しい大きな街ですね。
大久保利通に感謝です。
疎水事業の裏側で、水害で駅近くの多くの大中小企業が郡山から撤退している事実があります。水害対策はどこにいってしまったのか?
桑売り山が郡山の語源だそうです、因みに小原田は故西田敏行さんの住まわれていた神社が在る場所です。
昔から郡山市民、小1時代のあるあるですが、社会科の最初の時業は、安積疎水が、必ず題材にされました。
湖なの?(笑)
ただの池だとおもってた
郡山の意外な?発展振りに疑問を持っておりましたがその一部が大久保利通に繋がるとは知りませんでした。ありがとうございます。