その先には何があるのか?手稲山に残るオリンピック遺構を巡る 札幌市手稲山
皆さん、こんにちは。今回の動画は リクエスト企画第1弾丁寧山に眠るボブ スレーコースについて調べてみました。 このボブスレーコースは1972年に札幌 で開催された当期オリンピックの移行なん ですが、せっかくなんで他の競技場につい てもオリンピックのその後を追ってみまし た。 また山で開催された他の競技の移行られていない道についても紹介します。 [音楽] [音楽] [拍手] こちらが1972年に開催された当期 オリンピック札幌大会の競技会場で1箇所 だけ千歳のエだけで開催されました。 2月3日から2月13日までの11日間で 6競技35種目が行われ、東洋で初開催と なった東京オリンピックは札幌の発展に 大きく貢献した大会となったようです。 それから今年で53年経過した。今当時 競技が行われていた場所は今どうなって いるんでしょうか?丁寧山の探索に行く前 にまずはそこから調べていきます。 唯一札幌市街での開催となったスキーの ダウンヒルですが、なんで一種目だけエ だけになったかと言いますと、競技規定で 定められた標を札幌市内の山では確保でき なかったため、条件に叶う場所を探した 結果、え、になったそうです。 ここは元々国立公園内で何もない勝火山 だったんですが、オリンピックのために 専用コースを作り、大会終了後はロープ ウェやリフト建物も撤去した上で食林して 現状復元に務めたようです。 コース跡がすでに分からないほど自然が 回復していますが、当時建設された傭壁や コースの下をくぐるトンネルなどが今も 残っているそうです。 [音楽] オリンピックに向けて新設された三ク内 スケート競技場はその後夏はプール、冬は スケートリンクとして利用されていました が、現在は夏のプールを廃止して体育館と して使われています。なお数年後に移転し て通年型のリンクを進築する計画があるの で、あと数年でなくなってしまうかもしれ ませんね。 オリンピックのアイスホッケー競技場とし て1971年に立てられ、現在は月サム 体育館に名称を変えて数年型のスケート リンクとして利用されています。 [音楽] こちらはクロスカントリースキーの競技場 で、昔は距離競技と呼ばれていました。 スキーを履いて走るマラソンのような競技 で女子は最長で10km、男子に至っては 最長50kmの種目があり、冬の オリンピックで最も過酷な競技と言えるか もしれません。競技場は現在の羊ヶ丘展望 台にほど近い開発200mほどの給料地帯 に気づかれましたが、大会終了後に建物 などは撤去され、現在は森林地帯となって います。 [音楽] スキーの総力と射撃の腕が試される バイアスロン競技は射撃という競技内容の 特殊性から陸上自衛隊マこま内演習所の 敷地内に競技場が建設されました。 オリンピック開催後は現在に至るまで陸上 自衛隊の射撃場として活用されています。 富士の竜樹競技場は丁寧山に設置された 竜樹競技場の予備会場として当時あった 富士のヘルスランド国際スキー場に作られ ました。 オリンピックの後もコースは維持され、 現在国内で2箇所しかない竜樹専用コース として選手の練習や育成に欠かせない竜樹 の成地となっています。 オリンピックに向けて1970年に進行し たこの競技場はオリンピック開会式と スピードスケート競技に使用され、その後 も冬はスケート場、夏はテニスやフッド猿 などで市民に親しまれています。 また各種イベントでも活用されており、 北海道をままない花火大会はスタジアム ならではの見応えある花火大会として知ら れています。 [音楽] ままない屋内スケート競技場は オリンピック閉 フィギュアスケートで使用するため国立の 屋内競技場として1970年に進行。 当時は国内最大規模の屋内競技場であり、 美しい道務内の証明も含め、世界から非常 に高い評価を受け取で、オリンピックの後 も各種スポーツ、イベント、コンサートで 利用されています。 [音楽] 当初はジャンプ競技で使用するノーマル ヒルを大倉山のラージヒル横に建設する 計画でしたが、十分な観客席を設けるため には敷地が狭いため断念。そこで当時12 剣沢と呼ばれていたこの場所に70級の ジャンプ台であるノーマルヒルを建設する ことになりました。 札幌オリンピックでは70級個人で日本の 選手が表彰台を独占。その時の写真が こちらで金メダルを獲得した傘選手を片車 するノルウェのモルク選手。 実に素晴らしい瞬間を捉えた1枚ですね。 モルク選手を称えるの選手の気遣いも 素晴らしいです。 なお、まだ検討段階ではありますが、 大倉山ジャンプ競技場にノーマルヒルを 増設してデュアル化する計画があり、そう なった場合宮の森ジャンプ競技場は廃止に なる予定です。 [音楽] 大倉山ジャンプ競技場のルツは1931年 まで遡り、大倉財閥2代目、大倉岸さんの 資材によって60m級ジャンプ台が建設さ れたことに始まります。 完成後、札幌市に起造され、大倉として 使われていましたが、オリンピック開催に 向けて90m級に回収。 オリンピックでの成功はもよりその後の 日本ジャンプ競技において非常に重要な 役割を果たした競技場になりました。 現在では札幌市の象徴的な観光名所の1つ になり、毎年海外からも多くの観光客が 訪れています。なお、ラージヒルの横に ノーマルヒルを新たに建設する計画があり 、今後どのような変貌を遂げるのか非常に 楽しみです。 [音楽] 次は競技場ではありませんが、 オリンピック開催中に選手たちが滞在した オリンピック村は今どうなっているのか見 てみましょう。 こちらがオリンピック村の全体像で選手 たちの宿泊施設をはじめとする関連施設は 新たに建設された日本団の団地や文場住宅 、新設予定の小学校校舎などを オリンピック組織委会が借用する形で転用 されました。従ってオリンピック終了後は 返却され、男子宿舎は団地になり、女子 宿舎及び従業員宿舎は文場マンションなど で現在も利用されています。 さて、オリンピック競技場は札幌市内及び 江庭だけと他方面に分散されていますが、 旅客輸送を担う交通機関はどうなっていた んでしょうか?そちらも見てみましょう。 まずは地下鉄から。 オリンピック開催 で初となる地下鉄の営業がスタートしたん ですが、当初は南北線のみで北24条駅 からまこま内駅まで運行。初期計画では 前線地下になる予定でしたが、 オリンピック開催に間に合わせるため後期 短縮とコスト削減を図った結果、南平岸駅 からまま駅までは地上のシェルター内を 走らせることになりました。地下鉄の安定 した輸送力を軸に、バスやタクシーも会場 までの輸送に大きく貢献しました。 大通り公園に設けられた乗り場から各競技 場までピストン輸送が行われ、大会期間中 でのべ約8500便を運行。その他貸切り バスも1日あたり約380台、タクシーは 1日約2000台がオリンピック関連の 旅客輸送にあたり、大きな混乱もなく スムーズな移動に貢献しました。 いや、これは本当にすごいですね。 こちらは各会場の入場料金で現在の金銭 価値に換算すると約3倍の料金になります 。 [音楽] これで丁寧山以外の会場は一通り見終わり ました。ここからは実際に丁寧や駅各会場 のその後を見ていきます。こちらは オリンピックが開催される前の丁寧山の 地形図でこの時はまだ現在の成下代コース 麓元あたりまでしか道路が開通してい なかったんですね。 丁年山の開発が本格化するきっかけとなっ たのは1956年のことで、HBC北海道 放送がテレビ放送を開始するにあたり、 低山頂に送信所を設置したことに始まり ます。 連覇党までの管理道路建設も兼ねた丁寧山 レジャーランド化構層を立ち上げ。丁寧山 を所有する三菱金属工業とHBCの共同 収支により株式会社丁年オリンピアを設立 。 1965年に丁寧オリンピアスキー場が オープン。翌年の1966年には遊園地と ゴルフ場もオープンしました。 その後オリンピックの会場にも選ばれた ことからさらなる開発が進められ、現在の 原型がこの時に完成しました。 ここがオリンピックに向けて整備された 丁寧36戦の入り口で、それ以前はこちら の球道が使われていたんですね。 現在も現役の道路として使われている球道 から丁寧山を登っていきます。 国道5午号から入り、丁寧本長の住宅街を 過ぎると何もない山道になります。 昔の道路企画なので道幅も狭い上に勾配も きつくカーブも多いですが限動よりも 1kmほど距離を短縮できることに加え 通行する車も少ないので地元の人や通用に なれた方は結構球道を好んで走ってるよう です。 なお、このゲートから丁寧橋までの区間は 当期通行規制があり、11月から4月頃 までは通行止めになっています。 原道との合流地点が近づいてきました。 球道は限動の下を潜り、右に曲がった ところで合流します。 以前は球道がこの先まで続いてましたが、 現在はゴルフ場の敷地内となっているため 通行はできません。かなり昔の道なんでヤ に追われていて道がどこか分かりませんね 。 球道の終点側は道路の痕跡が残っています が、こちらもゴルフ場なんで立ち入り禁止 となっています。 寄り道してしまいましたが、オリンピック の移行を目指して先に進みます。 ここで言動に合流します。 左側にある脇道が先ほど見た球道の終了 地点です。 前方の山に見えてきたのが低熱機場の成下 代コースです。この日は日曜日だったん ですが、ゴルフ上の駐車場が満車状態でし た。 この成下大コースにオリンピックで使われ た竜樹競技場があったので、まずはここ から見ていきます。 [音楽] これがオリンピックの際に設置された成果 台です。どんな構造になっているのか じっくり見てみましょう。 成果台に登る階段の内側に燃料を供給する 配管が通っています。 [音楽] こちらが成下大コースを上から見下ろした 景色になりますが、リフトの左側に竜樹 コースがありました。 [音楽] オピック開催後もコースは維持され、市民 大会や選手たちの練習上として利用されて いましたが、1985年に撤去され、その 後はスキー場のコースとして現在に至り ます。 流樹コースの移行はありませんが、木が 伐採されている部分にコースの重かを 感じることができますね。 さて、竜樹という競技をよく知らないと いう方もいると思うので、簡単にご説明し ますと、1964年からオリンピックの 正式種目になった競技でソリで滑走して タイムを競います。 平年山コースのレイアウトは全長が 1023m、標高差 、最大車道15%、平均速度80km前後 となっており、見てる側も息を飲むほど スピード感のある競技となっています。 動画に掲載した資料には詳しい説明が記載 されていますので、一時停止してじっくり 読んでみてはいかがでしょうか。 [音楽] [音楽] 続きまして、ボブスレコースを見ていき ます。 今回視聴者さんからボブスレコースが見 たいとのリクエストだったので、ここは 年入りに撮影してきました。こちらが当時 の競技風景とコースの全体像です。矢印の 部分は当時のゴールハウスでGoogle ップで見てみるとその移行らしきものが今 も存在していることが分かったのでそこ から見ていきます。 丁寧36線から脇道に入っていきます。 Googleマapで見えていた建物の 痕跡はどうやらこのコンクリート基礎だっ たようです。 後の調査で分かったんですが数年前までは 廃が残っていたようでその後撤去されて しまったそうです。いやその時に見てみ たかったですね。 おそらくはその建物がボブスレコースの ゴールハウスだったんじゃないでしょうか 。 なんかどっかで見たことがあるような 入り口がありますね。 [音楽] なんかすごい怪しい感じがしますが、ま、 とりあえず入ってみましょう。 狭い階段を恐る恐る降りていくとあれ、 これどうやら地下に降りてきたんじゃなく て、さっきのところが2階でただ単に1階 に降りてきただけですね。 電気室と書いてあります。 あ、ちょっとほっとしました。 ただ中は思ったよりも綺麗ですごい広い 空間になっています。 50年以上前の建物なんでもっと口ている のかなと思ったら意外と綺麗ですね。 このはしごは何でしょうか?ま、おそらく 配線なんかをはわすためのはしごだったん じゃないかと思います。人が出入りする ためにはちょっと狭いですよね。 これは当時の写真で早朝や夜間でも競技が できるようにナイター設備が完備されてい ました。こういった証明やタイム計測を 行う機材のためにも電気室は重要な施設 だったんじゃないでしょうか。 外に出て他にも移行がないか探索してみ ます。 なんかありましたね。一瞬排水行こうかと 思ったんですが、どうやらこれは ボブスレーコースの基礎の部分のようです 。 さらに奥にはブロックのようなものがあり ました。 調べてみるとやはりこれらの移行はコース の基礎部分でした。 この上に氷を手作業で敷き詰めてコースを 作っていくようです。 山のボブスレーコスはゴールまで 1563m 、全長は1820にも及ぶので、コースの 設置と管理には大変苦労したんじゃない でしょうか。 さらに探索していくとコース脇に当時使わ れていた照明灯が残っていました。 オブスレーコースの原則区間にも照明が 残っているので道路沿いから見たことがあ るって方もいるのではないでしょうか。 私もこれまで何度か見たことはあったん ですが、てっきり昔使われていた道路証明 党かと思っていましたがボブスレーコース の移行だったんですね。ボブスレー競技を 映した当時の写真にもこの照明党が映って いました。 次はゴールハウスを過ぎたところにある ボブスレーコースの原則区間を見てみます 。 しばらく道路を登っていくと道路脇に 先ほど見た照明が並んでいるのが見えまし た。どうやらこの下に原速区間が通って いるようです。 コース跡を追っていくと途中から鉄骨で 作られたレールのようなものがありました 。 これは道路で例えると橋と同じ役割を 果たしており、谷間にコースを通すため このような構造になったようです。 その後ボブスレーコースは原速区間で 止まると運搬速度によって牽引され スタート地点に戻っていたようです。 次はドローンでスタート地点を見に行って みます。 こちらがボブスレーコースのスタート地点 です。 すぐ横にはスタートハウスの建物があった と思われる基礎部分が見えますね。 ここは丁寧オリンピアスキー場だった頃に 使われていた戦弱コースの頂上付近で オリンピックの後に設置されたリフトも 残っていました。 オリンピックの選手たちがここで掛け声と 共にボブスレに乗り込んでる姿を想像する となかなか胸が熱くなりますね。 この丁寧山ボブスレーコースは1970年 2月に国内初の専用コースとして完成。 オリンピック開催後も選手権大会などで 長い間利用されていましたが老朽化に伴い 2000年に閉鎖されています。 [音楽] 次はちょっと寄り道して丁寧オリンピア 遊園地を見ていきます。 いや、実に懐かしいですね。 [音楽] 観覧車の高さは約50m。その前に見える 駅舎のようなものはSL弁形号の乗り場 じゃないでしょうか。 そしてこちらにはジェットコースターも 見えてきましたね。 皆さんも1度はテネオリンピアに行った ことがあるっていう方も多いんじゃないか と思うんですが、どんな乗り物が好きだっ たでしょうか?私はちょっと変わってるん ですが、バズ法が1番好きでした。 [音楽] [音楽] 次はいよいよ最後になります。 アルペンスキー競技の競技場を見ていき ましょう。 こちらがアルペン競技のコース案内になり ます。 この写真はオリンピック当時の運営本部を 映したものなんですが、現在もほぼこの形 で残っているので、見たことがあ るっていう方も多いんじゃないでしょうか 。 ではまず丁寧山の頂上に向かいます。 [音楽] ドローンだとあっという間ですね。頂上の 標高1023mに到着しました。 こちらのロープウェイはオリンピック開催 後も2008年まで使われていましたが、 現在は丁寧キー場のサミットエクスプレス というリフトの完成に伴い 休止扱いとなっています。 いや、それにしても丁寧山頂上からの景色 は最高ですね。天気のいい日は江庭だけや も見渡せます。 山頂にある展望台には丁寧神社奥宮もあり ます。 今日は天気もいいので登山者の方も訪れて いますね。 では男子大回転協議が行われたコース跡を 見ていきましょう。 こちらのコースは丁寧スキー場の管理区域 街となっていますが、丁寧ゲートから出る ことを条件に自己責任で滑ることが可能と なっています。ですので知っている方も 結構多いのではないでしょうか。 こちらはオリンピック当時の写真で、当時 は第1リフト、第2リフトと1人乗り用の リフトがかかっていました。 オリンピック開催後にリフトは撤去されて います。こちらのコースは先ほども述べた 通り自己責任で滑が可能となっていますが 、ゴールハウス付近まで滑り切ってしまう とゲレンデに復帰することがかなり困難に なってしまうので、その点だけご注意 ください。 オリンピック開催後にリフトや建物は撤去 されてしまいましたが、男子大回転の頂上 付近にスタートハウスの基礎が残ってい ました。 スタート地点のスロープも残っていますね 。ここから選手たちはスタートしていまし た。 [音楽] 男子大会のゴールハウスはどうなっていた んでしょうか?そちらも気になります。 ここは現在の36通りと936通りの分岐 点になります。 ここに分岐点があるのは昔から知っていた んですが、まさかこちらがメインの道だっ たんですね。オリンピック当時は男子大 回転のゴールハウスまで道路が通じてい ました。 ただ現在は通行止めとなっており、ここ から車で進むことはできません。 なお、ゴール土地に行ってみましたが、 特に何もありませんでした。 次は女子大回転コースを見に行きます。 こちらのコースは丁寧スキー場の現役の コースとして維持されており、コース レイアウトもそのままとなっています。 しかもコース内に女子大回転のゴール ハウスが当時のまま残っているのでそちら を見ていきたいと思います。 この写真は女子大回転のスタートハウスを 映したもので現在は残っていません。 オリンピック開催中に女子大回転ゴール 付近を撮影した写真で ゴールハウスの裏には観客のスタンドが 見えますね。 [音楽] こちらが当時のまま残っている女子大店 ゴールハウスです。 現在も何かに使われているんでしょうか? 建物自体は当時のままのようですが、周り の景色はかなり変わっていますね。 [音楽] 次は男女回転構を見に行きます。 こちらもまた低年スキー以上の現役コース として現在も維持されています。 [音楽] オリンピックで使用された男女回転コース のリフトは1974年にオープンした低寧 ハイランドスキー場で引き続き意思をされ ていましたが、観光が営業権を取得した 2002年頃から運行吸止となっています 。 なお、こちらのリフトは中間駅が存在する 珍しい構造となっています。 さて、この男女回転コースの裏にもう1つ コースがあったのをご存知でしょうか? こちらの南リンカンコースとパノラマ3号 ペアリフトはオリンピックとは関係があり ませんが、せっかくなんで撮影してきまし た。 こちらのコースは2002年頃に閉鎖され たので知ってる方は少ないかもしれません 。 実はこちらのリフト丁寧ハイランドを運営 していた王子株式会社が1985年頃に 打ち出した西野スキー場計画の一端で設置 されたもので西野の住宅地に近い麓元まで ゴンドロやリフトを増設する予定でした。 しかし住民の反発によって同意を得られ なかったことから計画は中止。幻となった 西のスキー場計画の名残りとしてこの リフトが残っていましたが、それも 2002年に構訴及びリフトは閉鎖となっ ています。 [音楽] これでオリンピックの移行巡りは終わり ですが、いかがだったでしょうか? 1972年に開催された昔のオリンピック ということもあり、私自身初めて知ること も非常に多く、とてもいい勉強になりまし た。 交通インフラや宿泊施設なども オリンピックによって急成長したと言え ます。自分が生まれた町はどのように発展 してきたのか、その一端を知ることができ て本当に良かったです。 今回は視聴者さんからのリクエストで動画 にさせていただきましたが、いい機会を くださりありがとうございました。 ではまた次回の動画でお会いしましょう。 さようなら。 [音楽] [音楽] [音楽]
1972年2月3日に開催された冬季オリンピック札幌大会。53年前に使用された数々の競技場は今どうなっているのか?全競技場のその後を追うと共に、手稲山に行きオリンピックの面影を探します。また、幻となった西野スキー場計画とは!?ハイランドゾーンに眠る廃リフトについても調べてみました。
今回はリクエスト企画の動画第1弾となります。
(第2弾は室蘭、時期は年内)
#札幌オリンピック冬季大会#テイネスキー場#手稲山#旧道#廃墟
■■撮影機材(Shooting tool)■■
Nikon Z6 ミラーレスカメラ
DJI Mavic2 Pro ドローン
GoPro HERO8 Black アクションカメラ
動画編集ソフト
DaVinciResolve Studio.20
——————————————————————
【SNS】44ヤマグチ
twitter
Tweets by 44Yamaguchi
Instagram
https://www.instagram.com/44yamaguchi/
24 Comments
毎回素晴らしい動画をありがとうございます!とても見応えがあって面白かったです!
私は札幌とははるか遠くの長野住みですが長野オリンピックの遺構を見て回りたくなりました!
札幌オリンピックの頃の「札幌→手稲オリンピアゆき」の記念乗車券を持っていますが、たしかボブスレー競技のデザイン画でした。
恵庭岳の旧滑降コースは、雪の積もり始めの頃にモラップや支笏湖温泉あたりから眺めると、今でもそのコースがくっきりと浮かび上がります。もう半世紀以上も経つのに…という感じです。先般、羊蹄山ふもとで不当に開発された伐採痕は「原状復旧」の植林計画が提出されたそうですが、完全に元に戻る時期はこの事例を見れば明らかです。
「恵庭岳ロープウェイ」はオリンピック終了までは一般人の乗車もできたのでしょうかね?。それとも競技選手&関係者Onlyだった??が気になります☺
44ヤマグチオリンピック回…
しかし、貴重な記録ですね👍
ていうか、テイネオリンピアって
三菱とHBCの出資だったんですか!
いやぁ~懐かしい。小学生の時でしたが、手稲の男子回転競技と真駒内の男子スピードスケート競技を観に行きました。当時は札幌に住んでいても、子どもにとっては街が広すぎて土地勘無かったですから、今になってこんな場所でやっていたのだとわかった次第です。数年後に北海道を離れましたが、オリンピックの時の札幌が一番輝いていたと今でも思います。動画にありましたように、会場への交通機関での移動についてはスムーズで苦労しなかったと思います。
2030年の札幌オリンピック断念したよね😢
札幌市交通局と地下鉄と言えば図案化された北海道地図にSの文字と札幌市徽章。南平岸駅よりも霊園前駅のイメージが強い。
トワ・エ・モワの歌の通り発展していった札幌。
どストライクの年代からはやや離れてはいるが、非常に興味深く視聴させて貰いました。
高評価(定期)
リクエストに応えてくれてありがとうございます!
見たかったものが全て見れて、最高の動画でした!🔥
日本初のリュージュの指導者の方は、バレーボールの名指導者だったというだけで推挙され全くの畑違いの分野に放り込まれたのだとか。
懐かしくて 涙が出ました ありがとうございました。(当時7才)
このゴールハウス、まだ建屋があった頃、1980年代から90年代まで札幌の某建設会社の現場事務所として機能していました。ホントだよ。だってそこに営業に行ったことあるんだもん。
お疲れ様でした🥤当時のオリンピックの歴史なども分かり面白かったです👍
ボブスレーコースや当時の建物など解体されず残っているのは意外でした🤔
聖火台がそのまま残っているのは凄い😮
電気室は秘密基地みたいですね。
残念ながら階段を降りても教会やダンジョンに繋がらなかったですね😸
ボブスレーコースは1975年当時中間からゴールまで冬季は氷を張りコースとして利用されていました。たぶん78,79年頃まではボブスレーの練習が出来たと思います。札幌の某大学にボブスレー部があり私も勧誘を受けたので覚えています。友人は心折れて入部を受け入れ4年間在籍してました。夏はコースの草刈りなどして体力増進。冬季はブレーカー(後席)として練習に励んでおりました。
ボブスレーコースの遺構、記憶にありますね〜
手稲山にはオリンピック遺構がまだたくさん残ってるんですね🎶
私もドローンを飛ばすのですが、これはロープウェイの乗り口の駐車場から飛ばしたのですか❓
私は、1971年生まれなので当時私は、1歳でした。札幌オリンピック再び開催するかもと思っていましたが、色々あって駄目になりましたね。
支笏湖の裏側を回るポロピナイの道路も恵庭岳の競技場整備のための道路だったと記憶してます。
もう開通する望みは薄いんだろうな…
リフトに写っているのは、今はない、私が通った幼稚園の園長先生では?
地元の商店街の賑わいは物凄かった。
当時、滑降競技を初めて知り、初めてテレビで見た私はその凄さに驚いたものでした。
まるで湖に飛び込んでいくようだ、との選手の感想は映像でも伝わり、こちらの動画にも出てくる画像はそれを良く表しています。
日本選手が着用していたグローブ。日の丸をあしらったデザインのそれが外国人選手の間で話題になり、みんなが欲しがり大変だったそうです。
バズーカ砲、岩手県盛岡市にあった「サニーランド蛇の島」という遊園地にもあり私も好きでした。野球の軟球を圧縮ガスか空気で飛ばすやつでした。
手稲山には高校時代3回登りました。学校が琴似にありマラソン大会と、称して平地が6キロあとは登山と言う内容でしたが過酷な為途中寝転んでダウンする生徒もかなりおり、途中空腹に襲われ事、毎回2年目は下山途中、小学生の遠足に遭遇6年生の女の子にビスコを2つ貰いました。この時の味は忘れられません。その時のお礼を言いたいです。あと時はありがとうございました、と。1973年10月の話です。
ちなみに私はオリンピックでアイスホッケーを見ました。懐かしいおもいでです。
あまりにも内容がハイレベルすぎて驚かされました。編集に相当な時間と労力がかかっているのではないかと思います。ありがとうございました。
いつも見ています。確かに数年前まで、通りの脇に廃屋化していたゴールハウスがあったのを覚えています。オリンピア遊園地も懐かしいです。私は子供の時に、とてつもなく距離が長い(と感じていた)ゴーカートが大好きでした。スタートしてから戻るまで、15分ぐらい山の中を走行した記憶があります。
今や200万人都市に発展した札幌ですが、オリンピックがそれに貢献したことは疑う余地はないと思います。その当時の遺構が、50年以上経過した現在も残っているのは素晴らしいことですね。私自身、まだ子供でしたからオリンピック自体はうる覚えですが、この動画を通して当時の様子が確認できました。ありがとうございました。