【春日大社の歴史】世界遺産 春日大社のココは抑えたい歴史スポットをご紹介‼ 村瀬先生のぶらり歴史歩き 奈良・春日大社 前編

さあ始まりました ぶらり歴史歩き今回のパートナーは森川 さんですよろしくお願いしますよろしくお 願いします 今回なんですけども 奈良ということで 春日大社ともう一つはならまちその辺りを ちょっと ぶらりしていきたいなと思うんですけど 奈良公園来ましたんではいありがとう ございますスタッフさんがせんべいを 繋げます はいどうぞ今日はよろしくお願いします よろしくお願いしますよろしくお願いし ます [笑い] ね [笑い] [音楽] この番組は東進ハイスクールの人気講師 村瀬先生が 古地図を片手に今と昔の街を見比べながら ぶらりあるき 今回の舞台は 奈良 春日大社 全国におよそ3000社ある 春日神社の総本社であり 世界遺産にも登録されていること 奈良の文化財の一つ [音楽] そこには知られざる伝説や 3機 見つけると一晩で 金持ちになれるというそして神様への敬意 この地形を残してそしてこの建物を建てた わけなんですね さらにグルメまで おいしいですねありがとうございます 今回はそんな 春日大社の様々な魅力に迫ります それでは ぶらり歴史歩きの始まり始まり まずはね1の鳥居にやってきました 立派な鳥でしょこれ高さね7m以上あり ましてね 日本三大 木造鳥居の一つなんですよ ね 長くないですか だいたい大きさ表す東京ドームで言うと6 とか 6なんと東京ドームに換算しますと 23個分でございます やんこっから本殿までがだいたい 1.4km 国道みたいに行きますよ 昔のこの辺りの絵図なんですよね どうですだいぶ奥ですねまだまだですよね まだ本殿のほの字も見えておりませんので さあ今から行こうと思います歩いて行くん ですか 平安時代からほとんど変わらずに残って いるという山道を1キロほど歩き2人は二 の鳥居へ [音楽] ここからは広報の 秋田さんに案内してもらいます もうやっとだんだんこう神様に我々も 近づいてきたということですよねちょっと 空気感も変わってきてひんやり 深まってきてる感じはしますこれからね そのさらに2の鳥居をくぐっていくとです ね 雰囲気がだいぶね変わってきてもう本当に 今おっしゃられた通り神様の近くに近づい てきたなっていう感じはねしますんで 神様のお使いの 実際にですその2の鳥をくぐって何かそれ までと大きく雰囲気が違った違って るっていう所わかります 雰囲気の違うところわかりますそれまでね あるものはあったんですですけどこの2の 鳥をくぐったところで 極端にあるものがやたら増えません 鹿じゃないですよ [笑い] そういう風におっしゃるかなと思ったん ですけど 結構ねそのいわゆる小学生とか中学生は ですねあの 墓地にあるお墓っていう風に勘違いする人 結構いててまあそれはもちろん大きな 間違いで 灯籠なんですよで 春日大社っていうのは全国の神社 仏閣の中で一番 灯篭の数が多い [音楽] [音楽] [音楽] およそ3000機やるという 春日大社の灯篭現在では様々なお寺や 日本庭園に 春日灯籠として設置されているんですが その 原型とされているのが 室町時代に作られたこちらの灯篭なんです 2人はまず二の鳥居近くにある 花江戸神社で参拝名前の通りちんちんを 清めここから本殿へと向かいます まあいろんな 灯篭がありましてねその中で非常にね 面白いっていうか 興味深い直接っていうのがあるんですこの 石灯籠のこの竿の部分これはだいたいです ね親子の名前を掘ることが多いんですね 戦後は春日大社とあの掘られるのが ほとんどなんですけどもこの 約2000機の石灯籠の中で15機と言わ れてるんですけど神様のお名前を 彫ったところでこちらの神様いらっしゃっ てその 八柱の神様を総称してカスが大明神って いう風に言われるんですけどもその 春日大明神っていう風に掘った灯籠が15 機あって3期 見つけると一晩で 金持ちになれる 長者になれるっていう [音楽] 話は これから先でもね チャンスはあるかもしれない2000分の 15でしょうちょっと今回特別にですね あんまりその カメラさん広い絵で撮っていただきたく ないんですけども こっそりと お教えするとですね [音楽] 圧倒的に多いのに 以前あるテレビ番組で実際にそういう風に ですね 申し上げてタレントさんが見つけちゃった んですよどうなりましたご結婚されてたん だけど別れたんかな 信じるか信じないかはあなた次第皆さんも ぜひ探してみては [音楽] 続いていよいよ本殿へ 春日大社は平城京ちんごのため 茨城県 鹿島から 竹三日月のみことを 奈良三笠山山頂に 応戦して祀られました [音楽] その後768年に 聖徳天皇の勅命により 藤原氏が現在の場所に 社殿を造営し夜柱の神様を主宰神として 祀られたのが始まりと言われています ありがとうございましたあのちょっとね あのカメラでは奥の方撮影できないんです けどこの奥に 春日大社の一番中心とも言うべき夜柱の5 本でございまして実は 春日はですねお伊勢さんと同じように20 年に一度の 式年制度っていうのがありましてで 奈良時代から建物をですね作り替えをして いって60回その 式年贈答っていうものを作り替えという風 に書いて増大 伊勢さんは 宮を 移すんですねお宮の位置を行ったり来たり するんですねでこちらはその5点の位置は 変わらないんですはいで5点に1を買え ないまま神様を一旦 仮のお社にお寿司をしてそしてその建物を 一旦取り壊してで同じ形で再度新しい材で 作り替えをしましてそして神様をお戻し するとだからお宮の位置は変わらなくて 作り替えをするってことで増大っていう 言い方をしてましたね [音楽] 創研以来1200年にわたり 式年状態が行われ様式や景観はもちろん 事実も継承され続けているんです [音楽] そんな本殿前には 徳川家 五代将軍綱吉をはじめ名だたる武将たちの 灯籠が吊るされており 昔から 敬われてきた歴史がわかります 続いては 重要文化財の東海岸へ [音楽] いいでしょう ねそうなんですよここを歩いてるとずっと 傾斜じゃないですかここが行ってみたら 春日大社の中心部でこの新泰山である 三笠山の中腹なんですね 斜面に立ってるんですよ 奈良時代の終わり神宮慶応2年の年にここ にあの社殿を建てたんですけども見渡す 限りそんな言うほど広くないんですよだ からその時代の 技術力を持って もう平らにして建物を建てようと思った 建てられるんです けどもここは神様のお山なんですね神様の 場所なんです 人間があまりむやみやたらと地面を傷つけ ちゃダメなんですですのでこの地形を できるだけ残してそしてこの建物を建てた わけなんですねですからこの後ろのこの レンジ窓このレンジ窓が一つ一つこの地面 の 傾斜に合わせて 普通レンジマードって角がね当たり前です けど90度なんですよこの一番後ろすごい 角度すごいでしょもう平行四辺形になって ません [音楽] ですから大工さんはですね地形に合わせて 一つ一つ 木から 削り出してでこの建物を建ててるって言う ですね ものすごいねスゴ技なんですよ さらに 春日山原始林は平安時代から 狩猟伐採が禁じられており 春日大社の神域として 千年以上もの間 守られてきました 都市の近くにありながら今も現世の姿を 残す森は 極めて珍しいことから世界遺産にも登録さ れています 続いては回廊を抜け 春日大社の新体操である三笠山に一番近い 神聖な場所へ [音楽] ここはですね実は ご本殿の 真裏なんです そうなんですねもうこのこの 追試名のすぐ後ろが5本でなんですでその ご本殿からずっとですね 尾根が続いててでこの山頂まで行くんです ねでその山頂からこの尾根がずっと西の方 まで続いてってこのご本殿を経て西の先が 平城宮の大極殿につながっていくと ここねもう一つの聖地があってね 屋根のね 聖地でもあるんですよ 屋根漬けにとってはねたまらないところな んです 振り返っていただいたら [音楽] 素材がねなんか違うのわかりますそして [音楽] 板葺なんですよ ここに立つと3種類の違う 素材の屋根を 拝むことができるという屋根フェチの 聖地 こちらがねあの山に接しているんで ちょっと日陰みたいな形なので 檜皮葺だとどうしてもね木がコケとかそう いったのが生えやすい 途中から 瓦葺にしたんじゃないかとかねいうこれ ちょっとよくわかんないです 2人はお参りを済ませ 再び本店前へと戻ったところで 秋田さんからクイズこの辺りね 昔からほとんど変わってないんですよ 先ほど話しした 式年総体っていう制度のおかげで建物が 本当に数百年間変わってないんですねです けどその中でまあ 唯一と言っていいほどですね大きく変わっ てるものがあるんですそれって一体何 でしょう 春日の 信仰にも深く関わってる 本当にその平安鎌倉のものを見ても ほとんど変わらない 唯一 TTほど 成長している変わり続けている 自然のね生き物ですから なるほど あっちあたり行ってみてくださいここにね 正解を言うとですね 木なんですよこちらは杉の木で 樹齢が800年から1000年っていう風 に言われてこちらではご神木として大杉 っていう風に呼んでおりますけどもで ちなみにね 鎌倉時代の 絵巻でお社のすぐ横にそんなに言うほど 大きくない日が 鎌倉時代の絵巻に描かれている 木が800年経ってこれだけ成長したと [音楽] 言うても あるとそれは自然の成長であるって事なん ですね [音楽] 続いては若宮へ 若宮のご祭神は大宮の第3弾と第4殿の 御子神にあたりさらに本社本殿と同じ 春日造りの本殿を近くで見ることができる んです 2022年の秋に 式年状態が行われたばかりで 春日大社の本殿だけに使用が許された本種 という 貴重な顔料を使った美しい色彩を見ること ができます この 向きで何かそのお気づきになられたこと ありますそうですね山を背にしているよう な向きですのでこちらの本では音楽的な どちらを向いてるんですか こちらの若宮のご本殿は 西向きにお社が建てられてます先ほどは 大宮のご本殿は南向きに天使何名の思想で 建てられているとそれに対してこちらの 若宮の本殿は 奈良盆地 奈良の人たちに向かってお社が建てられて いるとつまりはですねその若宮様は7の人 たちに向かって見守り続けるようにお社が 建てられてると [音楽] 奈良の人たちはその東側東側っていうのは 三笠山があってしかも太陽が昇る方角です よね 昔ながらの 信仰っていうのがずっと根付いててそして その 奈良の人たちはこの若宮様に向かって祈り を捧げるっていう大宮は国の平安国民の 安寧を 祈願するお社それに対して若宮様は ヤマトの人たちのご祈願所ですからこの 若宮っていうのは個人の願いを 叶えてくれるそういうご祈祷の場でもあっ たわけです ね それは国のこととかそういうことを考えて お参りしてなあわけよこちらに来ると個人 的にお願いであったりとかができるわけ ですね は8月に中間灯籠が行われます 境内3000機にも及ぶ灯籠に火が灯る 幻想的な姿を見ることができます [音楽] 続いては 参道にある 春日荷内茶屋へ 江戸時代末期 境内で天秤棒に茶箱と茶釜をかけて 参拝客にお茶や歌詞をふるまっていた 担い茶屋が由来なんだそう 看板メニューは月替わりのお粥8月は 抹茶を使った冷やし街 [音楽] 美味しそう [音楽] すごくさっぱりとしててベースは本当に このカーナお抹茶のいい香りオリジナル ブレンドの 梅の 薬味が すごいありがとうございます [音楽] 本当に 美味しいですねありがとうございます [音楽] 万葉植物園っていうのがありましてその 万葉集にちなんだ 毎月旬のお野菜だとかを月替わりで入れ させていただいてるんですけれども 夏場はあのさっぱりとっていうのであの 抹茶を使って 毎日出てきますあの海藻も出てきますんで 上にねあの海苔をちょっとあのお店で いろいろ 混ぜてるんですけれどもはいそれと一緒に 召し上がっていただきましたら 万葉集にちなんだ 旬の野菜などが添えられる 万葉粥 そして 隣接している万葉植物園ではおよそ300 種の 万葉集で読まれた植物を植栽 四季折々の姿を楽しむことができるんです [音楽] 今回の ぶらり歴史歩きはここまで 2人が巡った地図はご覧の通り平城 京の主語国民の繁栄を祈願するために送検 された 春日大社現在も変わらない姿で多くの人 たちの心の拠り所であることが分かりまし た 次回はならまちをブラリアルキック ビックリ それではまたお楽しみに

【村瀬先生のぶらり歴史歩き】#39 奈良・春日大社 前編
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今回の舞台は、奈良・春日大社
全国におよそ3000社ある、春日神社の総本社であり
世界遺産にも登録されている、古都奈良の文化財のひとつ!
そんな春日大社の様々な魅力に迫ります!

春日大社燈籠にまつわる知られざる伝説とは⁉
歴史ある御本殿で唯一変化しているものとは!?
参道にある荷茶屋の看板メニューに舌鼓!

村瀬先生がわかやす~くご案内します!

出演:村瀬哲史・森川侑美

00:00 番組スタート!オープニング
02:06 一之鳥居から二之鳥居へ
06:30 春日大社の燈籠にまつわる知られざる伝説とは⁉
08:28 いよいよ御本殿へ
10:46 春日大社の美しい回廊
13:11 神聖な場所 御蓋山浮雲峰遥拝所
14:52 ご本殿で唯一、変化しているものとは⁉
16:40 春日若宮へ
19:20 参道にある荷茶屋で看板メニューに舌鼓!

【奈良・ならまち編はこちら】

eo光チャンネル 「村瀬先生のぶらり歴史歩き」
この番組は、大手予備校、東進ハイスクールの人気講師・村瀬先生が古地図片手に、今と昔の街を見比べながらぶらり歩き様々な歴史スポットをたずねる番組です。
古地図を見れば知らない歴史が見えてくる!

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番組公式サイト【全放送回公開中!】
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#村瀬先生 #森川侑美 #村ぶら #奈良 #春日大社 #eo光チャンネル #eo

8 Comments

  1. オープニング早々、お手本のような鹿せんべいのあげ方♪
    頭では分かっていても場所やタイミングが悪くて囲まれてしまったりで腰が引けたりして上手に上げられない事も多いのに、素晴らしい。
    15基だけの灯篭…頭の隅に入れておこう。

    次回予告のインパクト!楽しみにしてます。

  2. この撮影のとき、偶然に一之鳥居のところでお見かけました!見てみると?2:58のところで、ピンクのリュックを背負って外国人男性と話しているのが私です。
    この番組は面白い!末永く続けてください。

  3. 2024年5月9日(木曜日☀13時04分)参考に成りました。ありがとう御座いました🙏⛩

  4. 夢で春日大社の鳥居の夢を見ました。この動画を見て昔実家にも庭に春日大社にあるような燈篭があった事を思い出しました。

  5. 春日大社に祀られている春日神の二祭神が枚岡神社から分祀されたものであります。

  6. 百済の野望と目的達成

    3 蘇我馬子大王は日羅の進言(583年)により「百済は三百隻の船で倭国を侵略する計画をたてている」ことを知り、百済王の用明天皇を殺し(587年)百済兵273人を捕虜として倭国に連れて帰り奴婢とした(丁未の乱)。次の百済王の崇峻天皇も殺した(592年)。

     百済は殺されないように女帝の推古天皇をたてた。推古天皇のときに75名の俗人と10名の僧を肥後国の葦北の港に送るが、蘇我馬子は11名の僧以外は受け入れなかった(609年)。

    4 百済王の武王(舒明)は倭国王の蘇我馬子が亡くなり次の蘇我善徳(入鹿)は人の良いことを知ったので、殺されることは覚悟のうえで、試しに幼い次男(豊璋)と三男(塞上)の王子を人質として倭国に送った(631年)。

     武王(舒明)は641年に亡くなったが、次男(豊璋)と三男(塞上)は殺されずに大事にされていることが分かったので、百済は作戦を変更して、策士の翹岐(藤原鎌足)と高名な百済人40人余りを筑紫に送った(642年)。この船には皇極(斉明)や山上憶良の父も乗っていた。

     「藤原鎌足(策士の翹岐)は・・・つぎつぎと王家の人々に接触して、企てを成し遂げうる明主を求めた(日本書紀・644年)」。「王家」とは百済王家であり、「企て」とは「百済王と倭国王をすり替えること」である。その手始めが乙巳の変であった。

    5 なぜ、白村江の戦いを起こしたのか、なぜ、中大兄(百済王子の豊璋)は7年間即位しなかったのか(661年に中大兄は百済に行き、663年に百済王の禎嘉王を宮崎県に連れて帰り、各地から兵を集めて軍備を整えていた)、なぜ近江大津に遷都(667年)し壬申の乱を起こして騒ぎ立てたのか(宮崎県に百済王をかくまって軍備を拡張していることが見つかりそうになったので、宮崎県の神門神社を守るためにヒバリの偽傷行動をした)、の謎が解ける。すべては、「百済王と倭国王をすり替えるため」の準備であった。

    6 そのあと、鎌足の子孫は何度もすり替えのため、倭国王の暗殺をしているが、ほぼすり替えが成功したのは宮崎県から春日大社に呼び寄せた百済王の聖武天皇のときであった。

     藤原不比等は権力者(倭国王)をおだてて側近になっていた。呪詛を罪とする大宝律令の制定(701年)や日本書紀の編纂(720年)を主導した。穂積大王を暗殺し(715年)次の倭国王は鳥取県の倉吉に留まらせ、山上憶良を見張りにつけた(716年)。

     宮崎県の神門神社から聖武天皇を奈良の春日大社に呼び寄せた(718年)。

     5年間、倉吉の倭国王のそばにいた山上憶良を奈良に帰らせ(721年)、聖武を倭国王のように教育させて即位させた(724年)。

     春日大社にかくまっていた聖武天皇と鳥取県倉吉市にいさせた倭国王を奈良に帰らせる途中にすり替えている(734年)。しかし、平城京には本当の倭国王を知っている者が多くいたため「聖武は倭国王ではない」と言われた。「聖武は倭国王ではない」と言われるたびに遷都した。「聖武は倭国王ではない」という者は謀反を企てたとして斬首し晒首にした。怨霊として祟らないように東大寺を建立した。同じことを全国各地で行った。

     奈良時代は倭王朝の一族と百済王朝の一族との血で血を洗う時代であった。西大寺の道鏡や大伴氏は倭王朝側であった。東大寺と興福寺の怨霊を鎮める処理能力が限界に達したため、桓武天皇は怨霊に苦しみ平城京を捨てた(784年)。平安京では多くの寺を建て、陰陽師を雇って殺した者達の怨霊を鎮めた。東京に遷ってからは、明治神宮と靖国神社である。

  7. 1 藤原鎌足は百済人であった(阿武山古墳)。百済名は翹岐であり、「百済王を倭国王にすり替えるため」に倭国に来た。その手始めが乙巳の変(645年)であった。

     その後、倭国王を次々と暗殺していくが、ほぼ目的を達成したのが、宮崎県にいた百済王の聖武天皇を奈良県に遷したときであった(718年)。

    2 扶余義慈・扶余豊璋のように百済人は扶余族であった。扶余族(藤原五摂家=霞会館)は強奪することに喜びを感ずる一族(三国志魏書・高句麗伝)である 。

     金品だけでなくなんでも強奪する。地名も人名も系譜も歴史も良い評判も言葉も国も。

    倭国歴史書原本を入手して、大王を大臣に変えた。新羅を百済に変えた。聖武東遷を神武東遷に変えた。

     鳥取県にあった地名を、筑紫や日向や葛城や磐余や石上や伊勢や難波や河内や高千穂や宗像(もとは胸形)や稲葉(因幡)などに持っていった。

     難波を南場に変えさせ、安倍を阿部に変えさせ、歴史書の人名を奪った。

     大谷翔平は坂上田村麻呂が来るまでに卑弥呼一族と一緒に奥州市に来ていた。杉原千畝の評判も奪う。

     周りに受ける言葉を、そっくり口真似する。他邪馬台国と卑弥呼

     倭国大乱の原因は孝霊天皇をめぐる出雲族の姫たちの嫉妬であった。卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女・日女命又の名は倭迹迹日百襲姫命である。稚日女命と倭姫命は霞会館(藤裔会)に名前を変えられた卑弥呼であった。内藤湖南(倭姫説)と笠井新也(倭迹迹日百襲姫説)はどちらも正しかった。霞会館(藤裔会)の国史改ざんとフィクションの創作によって混乱が生じていた。

     卑弥呼の出身は鳥取県湯梨浜町宮内(黒田庵戸宮)である。

     魏志倭人伝に「倭の地ではその身体に朱丹を塗る」とあるが、鳥取県中部の古墳から出土した人骨42体(歯のみは省略)のうち11体(26%)は朱を塗った状態で亡くなっている。

     魏志倭人伝に「倭人の俗は、儀式や行事を行い、何かを言ったり行ったりする時は、骨を灼いて卜し、以って吉凶を占う」とある。青谷上寺地遺跡で全国で一番多い240点の卜骨が出土した。

     倭姫命世紀にある豊鋤入姫が巡った「倭の」笠縫邑は鳥取県琴浦町八橋であった。「倭の」彌和の御室嶺の上の宮は鳥取県北栄町下神の三輪神社であった。「倭」は鳥取県中部であった。

     倭国大乱は鳥取県を中心にした出雲族の反乱であった。倭姫(卑弥呼)と倭建の皇軍は鳥取県の出雲族(鬼・土蜘蛛・河童・蝦夷)を平定して倭国大乱は終結した。その後、倭姫(卑弥呼)と倭建の皇軍はさらに、西は長崎県・朝鮮半島、東は岩手県奥州市永岡神社までの広範囲を平定した。

     全国に社を建てて銅鐸祭祀を銅鏡祭祀の神道に改宗させた。全国の代表者を集めての祭祀は鳥取県北栄町下神の神浅茅原していた。その時、開化天皇や崇神天皇は豊田市の猿投神社に、倭迹迹日百襲姫は神戸市の旧生田神社にいた。

     しかし、鳥取県中部は東国から遠いため神道の祭祀は奈良の纒向ですることにした。しかし、奈良盆地には平定されたとはいえ敵対していた殷王朝末裔の準王一族(銅鐸祭祀の一族)が多く居たため、卑弥呼の安全な居所を探さなければならなかった。宇陀を出発し志摩国までめぐる「倭姫命世紀」は卑弥呼の安全な居所を探す巡行であった。

     卑弥呼(151年~248年)の居所は志摩国に定めた。魏志倭人伝に「南の邪馬壹国に至る。女王が都とするところ」とある。女王はそれまでの都(鳥取県中部)を離れて新たに邪馬壹国(志摩国)を都とした。邪馬台国は志摩国(志摩市・鳥羽市)であった。その時はまだ霞会館(藤裔会)の創った邪馬台国(志摩国)を封印するための伊勢国・伊勢神宮(大宮司は霞会館(藤裔会)が決定する)はなかった。

     奈良盆地の集落の環濠を埋めさせたのは190年頃である。卑弥呼が奈良の纒向で祭祀をするときは、伊勢神宮を通り・櫛田川沿いに高見峠を越えて吉野町宮滝経由で纒向に行き、帰りは和歌山の玉津島神社から船で何日もかけて伊射波神社まで帰った。卑弥呼の墓は鳥羽市安楽島町の「松の鼻古墳」である。

     伊勢神宮は、邪馬台国を封印するため、卑弥呼が纒向へ行く御幸ルート上に建てられた。明治期に入り、纒向と同じように神道の代表者を集めての研修・祭祀を伊勢神宮で始めた。

     台与は豊鋤入姫であり彦太忍信の娘の葛木志志見興利木田忍海部刀自(かつらぎししみよりきたおさかいべとじ)であった。第12代倭国王の屋主忍男武雄心の妹となる。第12代の妹は倭姫ではなく豊鋤入姫であり、神功皇后のモデルであった。豊鋤入姫は甥の武内宿禰と一緒に行動していた。豊鋤入姫は都を鳥取県中部(倭)に戻し、倉吉市鋤集落を本拠地にした。

    国(倭国・朝鮮・満州国)の領土を強奪した。

     藤原鎌足(翹岐)は倭国を奪う手段として六韜「権力者に近づいて徹底的におだてろ。相手の判断が鈍ったところで殺せ」を用いた(藤氏家伝)。

     また、扶余族は選民意識も持っているので自分たち以外の人々を家畜や虫けらのように扱った。藤原五摂家(霞会館)がそれである。

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