九鬼水軍の鉄甲船ARで再現

鳥羽城に続く第二弾!!
鳥羽市観光協会 九鬼嘉隆プロジェクトの一環として、鳥羽湾に九鬼水軍の鉄甲船を浮かべてみました。ARによる出陣の様子をお楽しみ下さい。
伊勢湾フェリー、鳥羽湾めぐりの遊覧船、市営定期船など、船の上からみて頂くのが最高です。また、マリンターミナル、かもめの散歩道付近でもご覧いただけます。今回の動画は市営定期船から見える風景です。

【九鬼水軍について】
第二次木津川口の戦い(だいにじきづがわぐちのたたかい)とは、天正6年(1578年)11月6日に毛利水軍と九鬼水軍との間で起こった海戦である。織田信長と本願寺顕如との間で争われた石山合戦における緒戦の一つであり、その大局にも影響を与えたとされる。嘉隆率いる九鬼水軍は敵方の村上水軍の焙烙作戦を対抗し、船を鉄板で覆ったと伝えられている。鳥羽地方では、今でも方言で、形が大きいこと、立派な事、豪華なことを意味する「てっぱりしている」という言葉が使われている。(例:なかなか、てっぱりした家やなあ。)

【第二次木津川口の闘いの様子】
天正4年、第一次木津川口の戦いで大敗した織田信長は、九鬼嘉隆の進言をいれ、鉄の装甲を備えた大安宅船(おおあたけぶね)の建造を命じた。天正6年6月頃、九鬼嘉隆は数多の大鉄砲と大砲3基を備えた大安宅六艘を伊勢湾で建造し、滝川一益も一艘の大船を建立している。6月10日、織田信長は堺の年貢を立用して九鬼水軍が兵糧に事欠かないよう配慮するよう松井友閑等に指示している(宮部文書)。そして九鬼水軍は伊勢湾から大坂表へ向けて回航し、6月26日には熊野浦に進む。そこで雑賀衆と交戦するも、九鬼水軍の大鉄砲による斉射により雑賀衆は寄り付かなくなった。7月17日には堺港に寄港して多くの見物人を驚かせ、翌18日には大坂表に乗り出し本願寺の海上補給ルートを遮断する。9月30日、堺港にて新造船は信長による船揃いを受けた。その後再び大坂表に出動し海上封鎖を開始、10月12日には前哨戦ともいえる戦いが起こる。そんな中10月21日、荒木村重が謀反を起こす。

大安宅船の大きさは『多聞院日記』の天正6年(1578年)7月20日条に「横へ七間、堅へ十二、三間もこれ在り」とあることから、長さ十二、三間の幅七間(一間は約1.8メートル)であったと考えられているが、これでは幅に比べて長さが短かすぎる。これに対して、『信長公記』の伝本のうち尊経閣文庫所蔵の一本(外題『安土日記』、江戸時代の写本)では、九鬼嘉隆が建造した六艘について、巻十一に「長さ十八間、横六間」と記載されていることから長さ十二、三間の幅七間という寸法は、長さ十八間、幅六間に訂正する必要があるのではないかと言われている。

天正6年11月6日、先の前哨戦に起因したのか或いは、荒木村重の謀反に呼応したのか、毛利・村上水軍の船約600隻の軍勢が木津川河口を襲撃。これに対して九鬼嘉隆率いる大安宅船6隻の九鬼水軍が応戦し午前8時前後から正午にかけての海戦となった。始めのうちは九鬼水軍が囲まれ戦況は毛利・村上水軍が押しているかのように思われたが、九鬼嘉隆は敵船を近くまで引き寄せ大安宅船6隻に備えた数多の大鉄砲・大砲をもって敵旗艦に斉射をしかけた。それ以後、毛利・村上水軍は九鬼水軍に接近できなくなり、敗走した。『信長公記』の本項最後は「見物の者共九鬼右馬允手柄成と感せぬㇵなかりけり」と結んでいる。

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