『嵐の中の母子像』 本郷 新(しん)作 広島市中区中島町1丁目1−10平和記念公園 #広島 #広島市 #本郷新 #核兵器廃絶 #平和 #観光 #原水協 #ブロンズ像 #寄贈 #嵐の中の母子像
『嵐の中の母子像』 本郷 新(しん)作 広島市中区中島町1丁目1−10平和記念公園 #広島 #広島市 #本郷新 #核兵器廃絶 #平和 #観光 #原水協 #ブロンズ像 #寄贈 #嵐の中の母子像 20240709 @akibingo
嵐の中の母子像
建立年月日 1960(昭和35)年8月5日
建立者 広島市婦人会連合会
制作者 本郷新(しん)(彫刻家)
形状 右手で乳飲み子を抱え、左手で幼児を背負おうとしながら、前かがみ姿勢で生き抜こうとする母の姿を表す。(高さ1.5m、幅1.6m、奥行き65cmのブロンズ像)
建立の目的 核兵器廃絶への限りない努力を呼びかける。
特記事項
1 石こうの像 1959(昭和34)年、第5回原水爆禁止世界大会が開かれた折、原水爆禁止日本協議会から当時の浜井広島市長に、原水爆禁止運動推進への感謝のしるしとして、この像の原型となった石こう像が贈られました。 2 ブロンズ像へ その後、この大会の成功のために尽力した広島市婦人会連合会が「平和記念公園への設置」を呼びかけ、ブロンズ像にするための募金活動を行い建立され、広島市に寄贈されたものです。 襲いかかる業苦に耐え、悲しみを乗り越えていく母親の強い愛情を示す像に市民の平和への願いを託しています。
3 本郷新 札幌出身の彫刻家。「わだつみの像」をはじめ、人間愛に満ちた多くのモニュメントを残しています。 像の原型となった石こう像は、現在、札幌市にある本郷新記念館(札幌彫刻美術館)に展示されています。
どのような苦難にあっても我が子を守る母の強さ、たくましさが見る人に強い印象を与える《嵐の中の母子像》は、1953年、本郷新が47歳の時に制作した作品です。
制作の契機となったのは、前年1952年の海外旅行でした。本郷は、1952年12月から翌年4月までウィーンで開催される第1回世界平和会議に出席するため、初めて海外に行く事になりました。
出国に手間取り、結局会議には間に合いませんでしたが、フランス、オーストリア、チェコスロバキア、ソ連を訪れ、美術館見学や各国の彫刻家、画家、評論家などと交流しています。
多くの西洋美術に触れ帰国した本郷は、逆により日本的なものである仏教美術を求めて京都、奈良を訪れました。本郷は、法隆寺の百済観音、薬師寺の金堂薬師三尊像など、隋、唐の影響を消化して日本独特の造形美に到達した白鳳・天平時代の仏像に惹かれます。
1942年に発行した本郷の著書『彫刻の美』(冨山房)でも、白鳳・天平仏は「他のどの時代の仏像よりも気持ちの上の広さや、高さ、深さを持っている」と書いています。
西洋美術と東洋美術を本郷なりに消化して制作したのが《嵐の中の母子像》でした。本郷は、西洋の愛と慈しみの象徴としてのマリアとキリスト像とは違う母子像を作ろうとします。
また、「仏教美術とも違う、現代の日本における母子像とは何か」を探求します。そして、たどり着いたのが、戦後日本の母と子が置かれている厳しい状況を造形化することでした。
完成した作品は、1953年秋の新制作協会展に出品。その後、1959年第5回原水爆禁止世界大会広島大会を記念して《嵐の中の母子像》の石膏像が広島市に日本原水協を通して寄贈されました。
石膏像は、婦人団体が募金活動をして鋳造費を集め、制作してから7年後、広島市民からの熱い思いが実り1960年、広島市平和記念公園に設置されました。
この作品について本郷新は、次のように語っています。
「この作品のモティーフは、広島の惨害です。胸に乳飲み子を抱きかかえ、背にもう一人子どもを背負って、立ち上がろうとする母子の必死の姿は、まさに突進の形です。普通母子像は、暖かい愛情を表現するものですが、《嵐の中の母子像》は、いつ離れ離れになるかも知れぬという不安と、非常な事態の中での愛情の危機、もしくは極限の状態です。この、とことんまで生きようとする母子の像を通じて人間の生命の尊厳を象徴づけたつもりです。だから単なる母子像というより、母子二代にわたる悲しみ、二つの世代に横たわる悲劇の記念碑というわけです。」
本郷 新(ほんごう しん )
1905年(明治38年)12月9日 – 1980年(昭和55年)2月13日
日本の彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。息子は俳優の本郷淳、義娘(息子の妻)は柳川慶子。孫は俳優の本郷弦(無名塾所属)。
来歴
北海道札幌区(現札幌市)生まれ。父・敏慎(びんしん)は島根県松江市出身で、札幌農学校を卒業後に種苗・農具の会社を設立した。母・楯(じゅん)は山形県鶴岡市出身で、スミス女学院を卒業。キリスト教的な雰囲気の教育方針をとった。6人兄弟の次男。実家は南1条西13丁目。
1919年、旧制・札幌第二中学校(現北海道札幌西高等学校)に入学。父の経営する会社が東京に進出したことから、東京の順天中学校に転入。東京在住時に展覧会を見て回るようになり、美術への関心を高める。
父の言いつけにより札幌に帰郷し、1923年に旧制・北海中学(現北海高等学校)に転入。美術部及びサッカー部に所属した。南部忠平は級友であった。東京美術学校志望だったが親に反対され、産業との関係が深い東京高等工芸学校彫刻部(現千葉大学工学部)に1925年に入学。作品が完成するたびに高村光太郎のもとを訪れ批評を受けた。ただしこの頃の高村はすでに彫刻を離れ、詩作に専念していた時期であった。教授に造幣局への就職を斡旋してもらうも、断って彫刻家を目指す。学校ではメダル彫刻を徹底的に叩き込まれたために、レリーフ彫刻が得意となった。
1930年、俣野温子と結婚。三岸好太郎の親友でもある夭折の画家・俣野第四郎の実妹にあたる。当初は東長崎の借家に暮らし、1933年からは梅丘に移り住んで約50年間暮らすことになる。
1931年に国画会の国画奨学賞を受賞し、1934年に同会員となる。1939年に脱会し、舟越保武、佐藤忠良、柳原義達らとともに新制作協会彫刻部創設に参加。中心メンバーとして活躍する。1942年、日本大学での講義をもとにした著書『彫刻の美』が、太平洋戦争の戦時下ながら2万5千部を発行するベストセラーとなる。1944年、妻温子を結核で亡くし、母の手引きにより小林重子と再婚。
1945年、日本美術会創設に参加。1948年、日本共産党へ入党。1950年以降、野外彫刻に積極的に取り組むようになる。
平和運動に積極的に参加し、1952年から第1回ウィーン平和会議出席のために渡欧。チェコやソ連の国家体制と結びついた社会主義リアリズムへの関心を強めた。1956年にはアジア連帯文化使節団の一員として世界各地を訪問した。
1960年、7年前に制作していた「嵐の中の母子像」が、平和の象徴として広島平和記念公園に設置される。
1965年、小樽市春香山にアトリエを建設。設計は田上義也。
1977年、故郷札幌の宮の森にギャラリーを兼ね備えたアトリエを建設。
1979年に勲三等瑞宝章を受章したが、受章は周囲から反対されたという。
1980年、肺癌により死去。生前より自ら進めていた財団設立構想をもとに、没後はコレクションと宮の森のアトリエが札幌市に寄贈され、本郷新記念札幌彫刻美術館となる。
人物
戦後日本の具象彫刻を牽引した彫刻家。彫刻の社会性、公共性を重視し、ヒューマニズムに貫かれたモニュメンタルな野外彫刻の制作に熱意を注いだ。その野外彫刻は、北海道から鹿児島県まで全国80箇所あまりに設置されている。1950年に自身最初の野外彫刻「汀のヴィーナス」を上野駅前に設置したが、これは日本初となる公共の場に設置された裸婦像であったとされる。西洋では一般的であった野外彫刻文化を日本に持ち込んだ。この功績から、公共彫刻を対象とした「本郷新賞」が1983年に設立され、2013年からは「本郷新記念札幌彫刻賞」にリニューアルされた。
作品の公共性から、彫像を損壊される事件にたびたび遭った。1953年に立命館大学に設置された戦没学生記念像「わだつみ像」は、学生運動が激しかった1969年に全共闘を名乗る集団によって破壊されるという事件が起きた。旭川市常磐公園に設置した「風雪の群像」はアイヌの描写について論争となり、1972年には東アジア反日武装戦線の前身グループによって破壊されるという風雪の群像爆破事件が起きた。
受賞歴
1931年 – 国画奨学賞(「女の顔」)
1944年 – 野間美術賞(「援護の手(母子像)」)
1953年 – 日本平和文化賞(「わだつみのこえ」)
1959年 – 日本国際美術展優秀賞(「哭」)
1974年 – 北海道新聞文化賞
1978年 – 北海道文化賞
1979年 – 勲三等瑞宝章
主な彫刻作品の設置場所
「北の母子像」 1978年 北海道庁
「牧歌」 1960年 札幌駅南口公園
「三人の像”lesson”」 1976年 札幌グランドホテル
「氷雪の門」 北海道稚内市
「冬の像」 幣舞橋(北海道釧路市)
「泉の像」 札幌大通公園(北海道札幌市)
「雪華の舞」 北海道札幌市真駒内 (第11回冬季オリンピック記念碑)
「石狩 -無辜の民-」 北海道石狩市
「風雪の群像」 北海道旭川市常磐公園
「石川啄木」1958年 北海道函館市大森浜・啄木小公園
「老人」1981年 花と彫刻の道(兵庫県神戸市中央区加納町6)
「花束」1971年 姫路市立美術館(兵庫県姫路市)
「嵐の中の母子像」(1953年石膏原型制作:本郷新記念札幌彫刻美術館蔵)、 広島市記念公園(広島県広島市1960年)、立命館大学びわこ・くさつキャンパス(滋賀県草津市1992年国際平和ミュージアム設置、1998年BKCレストガーデン移設)、北海道立近代美術館(北海道札幌市。1971年設置1977年再設置)、長島美術館(鹿児島市・1989年)、平和祈念館(長万部町・1984年) 滅亡した大日本帝国で生き残った母子が苦難に立ち向かう姿を表現した。立命館大学では、毎年12月に像の前で「不戦のつどい」が行われている。
「わだつみのこえ」(立命館大学国際平和ミュージアム、北海高等学校他) (戦没学生記念像)
「母子像」池袋駅東口
「北の母子像」 1978年 横須賀市自然人文博物館前庭
「奏でる乙女」 東京都港区 六本木交差点
「緑の讃歌」 1973年 大阪市中之島公園