101 浅草田甫酉の町詣=あさくさたんぼとりのまちもうで Asakusa Ricefield and Torinomachi Festival.

私の大好きな安藤博の描いた名所江戸百系 その場面が今どうなっているのか実際に その場所を尋ねて見てみまし た101の浅草田房鳥の町門で は新吉原遊郭の義郎の一室からおと様と その産形客を見た景色です まずAppleマップで新吉原がどこに あったのかをご確認 ください江戸城から北東に約5kmほど 行った辺りです ね当時この辺りは江戸のはれで民家は 少なくほぼ畑と田んぼでし た 江戸幕府解説間もない1617 年現在の日本橋人形町あたりに吉原と呼ば れる公認の遊郭を許可していました が明暦の対価で消失してしまいまし たそこでバ はすでに人魚町界隈がかなり住宅化してい たため にではなく遊郭そのものを戦掃除の裏の 田んぼへ移転させまし たこの新しい公認遊郭は人形町の吉原と 区別するために新吉原と呼ばれていまし た地図では赤い破線で表してい ます ここで少し拡大した地図をご覧 ください新吉原は総面積2700つの広さ で長方形の形をしており四方には黒板が 巡らされ外の田園から隔離して おりさらにその外側には オハロと呼ばれる 幅約3.6mの堀で囲まれていまし た堀は不審者を取り締まるのと友助の逃亡 を防ぐために設けられまし た青い線の部分です [音楽] ね新吉原唯一の出入り口は北東側の黄門 だけでし た この上に当時のエ図を被せてみ ますしかしこれは小さすぎるの で少し拡大してみる と新吉原と大と神社の関係が分かります [音楽] ねこれが1846年効果3年の 新吉原の詳細地図で太門が右側になってい [音楽] ますお店がたくさんひき合っていることが わかります ね次に安西4年秋発行の再建図と呼ばれる 地図をご覧 ください地震による火災から復興して整備 された新吉原にに江戸シチに散らばってい た仮店舗から店が新たに引っ越してきた

時期の地 です黄門が下になってい ます当時このようなガイドマップ的な地図 がベストセラーになっていまし たひしの絵は右上の破線で囲まれた エビア三浦屋あたりの大田の部屋を想定し て描かれたのではないかと思われ ますここで広しや国定の残した吉原の世を 見ながら新吉原とここで働く友助を解説し ていき ますこれが広しが描いた吉原の全体像 ですこの敷地の中で約1万人の人々が生活 して おり1日000料ものお金が動いていまし たまた幕府は明賀金としてその1割を待部 業所に納めさせていたの で新吉原は大事にさ れまたその取り締まりもものすごく厳しい ものがありまし た 江戸名物の観光 スポットあるいは文化の中心でもあった 吉原で華やかに振る舞う友助たち は実は区会10年と言われる過酷な生活を していまし たその10 年またはそれ以上の年金を終えるまで は吉原の外に出ることすらできませんでし た彼女たちがなぜ友助になったかと言え ばそのほとんどが身売りという形で吉原に やってきていまし た江戸時代でも身売りは禁止されていたの で表向きは年期暴行の前借金渡の形でした が実体は人身売買でし [音楽] た元と呼ばれるリクルーターが諸国を 回り親族からの申し入れだけで なく貧しい農民の娘を探して親を 口説き娘には甘い言葉で友屋に連れてきて いたの です農村の娘は親がわずか3から5 両現代の価値に直すと40万円から 100万円に満たない額で売られてしまい まし たこれらの借金 は彼女たち自身の借金となり膨大な利子を つけられていたので簡単には返せ ず年期10年をあげなければなりません でし た友助たちがもらえる休日 は正月と盆の年2回 だけしかしこの時でもほとんど が自由に黄門を出ることはできませんでし た1849年火影2年に 梅本屋の友助16人が凶暴した放課ミス

事件が起きまし た彼女たちは騒ぎに紛れて名主役に 駆け込んで経営者の非道を訴えまし たその長所に は腐ったご飯しか食べさせてもらえないと か状態になるほどの切間を受けたといった 生産な日常が記されていまし [音楽] た新吉原には大体3000人から5000 人の友助がいました が左右とか呼び出しなどと言われる高級 友助はほんのごくわずかでし た またほとんどの友助が 年期明けになる前に性病などの病気で なくなっ たり借金を開始きれず一生吉原から出られ ないというのが現状でし た当時の友助の平均寿命は22から23歳 ぐらいだと考えられてい [音楽] ます友助が新吉原から出られるのは死んだ 時でし た彼女たちの遺体は真夜中にこっそり逆さ 釣りにされて吉原から運び出されていき ますみの 城官寺本ず三下の今戸ありにあった西法寺 など何箇所かあった 通称投げ込み寺の形態に持ち込ま れ小銭に抑えて放置されるのが通常だった よう ですその上官字の過去調の記録による と1ヶ月に新吉原から運び込まれる友助 たちの遺体数は平均40人 ぐらい再法時で28人ぐらいでし た華やかで悲惨な彼女たちの生活実態です がそれを乗り越え年期が上げた 友助世間は温かく迎え入れていまし たこんなエピソードがあり ます最も江どっこらしい江っこと言われた 作家 [音楽] 三東強電は生涯に2回結婚しました がいずれもイランクラスではない普通の 友助を見受けし妻に迎えてい ます京伝はある時後輩の南総里発見殿で 有名な 作家滝沢刃牙に語ってい ます 彼女たちはみんな優しいし頭がいい し女房にするには最高だ とそれで はひしの絵を詳しく見ていき ましょうまだ青みの残る空をカが飛んで いき

ます兵の先には雪をかぶった白い 富士山その下には暗く描かれた 田んぼその中で何やら行列ができてい ますよく見るとたくさんの人人が熊手を 担いで歩いているのが分かり ますその出所が右手に隠れている大と神社 [音楽] です 大鳥神社は毎年11月鳥の日が霊祭で鳥の 町と呼ば れ儲けを取り込む熊 [音楽] で人の頭になれる八がし 芋金持ちになれる小金持ちこれは国持ち ですがこれらが売ら れ商売繁を祈る商人や職人で逃げ回ってい まし [音楽] たこの日は新吉原でも本日で特別な祝日と さ れ普段は固く閉じている一番奥の西頭門が 解放されオハロに急への橋もかけ られ客と同伴であれば自由に出ができまし [音楽] た左端のついたてに は取出すきと呼ばれるもんが描か れ品格のある店として描かれてい ます腰板にはふらが描か れ皮肉に も食べ物に困らないように豊かにに 暮らせるようにという願いが込められてい ますその下に は客と同伴で外に出てお鳥様で買って もらったのでしょう か熊手型のかざしが数本並んでい ます実は当時吉原では客予選の演者として かざしが大流行し様々なデザインが作られ 客とのやり取りに使われていまし [音楽] たそんな年中行事を経済衛生 がエアの愛染打で描いていまし [音楽] た真ん中に は甲島からじっと外を見る白い猫が描かれ てい ます おそらく優女の飼猫でしょう がこれが私にはどうしても優女そのものに 見えてき ます今つたの奥ではご主人が仕事にせを 出しているのにこの猫はそんなことが まるでなかったかのようにじっと外を見て い ます さて実際にこの場所に行ってきましたと

言って もこの場所は正格に割り出せているわけで はありませ んこの写真は元新吉原の北星の 橋専属4丁目の別れ道 でこの先に行くと大と神社があり [音楽] ます 現在の大と神社がこれ です江戸時代までは長国寺の形代者である わし大明人でした が明治維新の新物分離に際し 独立社名を大と神社と解消しまし たご神体がわしの背に乗っているあ様で わし掴みに通じることで出世ブ海運の神様 として人気がありまし た今では田んぼの中ではなくビルに囲まれ ています [音楽] が広の絵に現在の状態をはめ込んでみまし たとりあえずこんな状態 [音楽] ですこれではあまりにもオリジナルと違い すぎるの でAppleMapとGoogleASと 富士山の合成 でちょっと作ってみまし たさて私 はひしがこの絵で優女たち全体を応援し たかったのではないかと考えています この絵が発行されたのは安西4年1857 年の11月 ですちょうど2年前の安静の大地震で壊滅 した新吉原も6月から本格的な再建移転が 始まりこの頃からちょうど賑始めた頃 です地震では 500人以上の優女たちが逃げ遅れて 亡くなりました が運よく助かった優女たちも再び吉原に 戻り年期をこなすため頑張り始めていた 時期でし た絵の中のついたての鳥出き もふらの鳥 場優女たちの かの取状態を意味してい て熊手型のかざしで服をかき集め てやがては外に出ることを夢見てじっと外 を見る友助の変わりの白い [音楽] 猫考えすぎかもしれません がこの前年発して包帯となった広げの せめてもの願いがこの絵に出ているような 気がしてい [音楽] ます

https://www.axera.co.jp/edo100/index.html
安藤広重が江戸時代に描いた浮世絵シリーズ、
名所江戸百景、その舞台となった場所は、
今、実際どうなっているのか、訪ねてみました。
Ukiyo-e series drawn by Hiroshige Ando in the Edo period,
100 Famous Views of Edo, the place where it was set
I asked him what was actually happening now.
Click here for English version.
https://www.axera.co.jp/edo100views/index.html

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
101の「浅草田甫酉の町詣」は、新吉原遊郭の妓楼の一室から、おとり様と、その参詣客を見た景色です。

まず、Applemapで、新吉原がどこにあったのかをご確認ください。
江戸城から北東に約5キロほどいったあたりですね。当時、このあたりは江戸のはずれで、民家は少なく、ほぼ畑と田んぼだけでした。

江戸幕府開設間もない1617年、現在の日本橋人形町あたりに吉原と呼ばれる公認の遊廓を許可していましたが、明暦の大火(1657年)で焼失してしまいました。そこで幕府は、既に人形町界隈がかなり住宅化していたために、再建ではなく遊郭そのものを浅草寺の裏の田甫へ移転させました。
この新しい公認遊郭は、人形町の吉原と区別するために新吉原と呼ばれていました。地図では赤い破線で表しています。

ここで少し拡大した地図をご覧ください。新吉原は、総面積2万700坪の広さで長方形の形をしており、四方には黒板塀がめぐらされ外の田園から隔離されており、さらにその外側には「お歯黒どぶ」と呼ばれる幅3.6メートルの堀で囲まれていました。堀は、不審者を取り締まるのと遊女の逃亡を防ぐために設けられました。青い線の部分ですね。
新吉原唯一の出入り口は北東側の大門(おおもん)だけでした。

この上に、当時の絵地図を被せてみます。
しかし、小さすぎるので、少し拡大してみると、新吉原と鷲神社の関係がわかりますね。

これが1846年(弘化3年)の新吉原の詳細地図で、大門が右側になっています。お店がひしめき合っているのがわかりますね。

次に安政四年秋発行の細見図と呼ばれる地図をご覧ください。地震による火災から復興して、整備された新吉原に、江戸市中に散らばっていた仮店舗から、店が新たに引っ越してきた時期の地図です。大門が下になっています。当時このようなガイドマップ的な地図がベストセラーになっていました。
広重の画は右上の、赤い破線で囲まれた、海老屋、三浦屋あたりの大店の部屋を想定して描かれたのではないかと思われます。

ここで広重や国貞の残した吉原の画を見ながら新吉原と、ここで働く遊女を解説していきます。
これが広重が描いた吉原の全体像で、この敷地の中で一万人の人々が生活しており、一日千両ものお金が動いていました。
また、幕府は冥加金としてその1割を町奉行所に納めさせていたので、新吉原は、大事にされ、またその取り締まりも、ものすごく厳しいものがありました。

江戸名物の観光スポット、あるいは文化の中心でもあった吉原で、華やかにふるまう遊女達は、実は「苦界十年」と言われる過酷な生活をしていました。その十年またはそれ以上の年季を終えるまでは、吉原の外に出ることすらできませんでした。

彼女達がなぜ遊女になったのかと言えば、そのほとんどが身売りという形で吉原にやってきていました。江戸時代でも身売りは禁止されていたので、表向きは年季奉公の前借金渡しの形でしたが、実態はほぼ人身売買でした。女衒と呼ばれるリクルーターが諸国を回り、親族からの申し入れだけでなく、貧しい農民の娘を探して親を口説き、娘には甘い言葉で遊女屋に連れて来ていたのです。

農村の娘は、親がわずか3~5両、現代の価値に直すと40万~100万円に満たない額で売られてしまいました。これらの借金は彼女達自身の借金となり、膨大な利子をつけられていたので、簡単には返せず、年季10年を務めあげなければなりませんでした。遊女達がもらえる休日は正月と盆(7月13日)の、年に二回だけ。しかしこの時でも、ほとんどが自由に大門を出ることは出来ませんでした。

1849年(嘉永2年)に、梅本屋の遊女16人が共謀した放火未遂事件が起きました。彼女たちは、騒ぎに紛れて名主役宅に駆け込んで経営者の非道を訴えました。その調書には、腐ったご飯しか食べさせてもらえないとか、瀕死状態になるほどの折檻を受けたといった凄惨な日常が記されていました。

新吉原には、だいたい3000人から5000人の遊女がいましたが、大夫(たゆう)とか呼出(よびだし)などといわれる高級遊女はほんのごくわずかでした。
また、ほとんどの遊女が、年季明けになる前に性病などの病気で亡くなったり、借金を返しきれず、一生吉原から出られないというのが現状でした。

当時の遊女の平均寿命は22-23歳ぐらいだと考えられています。
遊女が新吉原から出られるのは、死んだ時でした。遊女たちの遺体は真夜中にこっそり逆さ吊りにされて吉原から運び出されていきます。三ノ輪の浄閑寺、日本堤下の今戸あたりにあった西方寺など、何箇所かあった通称「投込寺(なげこみでら)」の境内に持ち込まれ、小銭を添えて放置されるのが通常だったようです。

浄閑寺の過去帳の記録によると、一ヶ月に新吉原から運び込まれる遊女たちの遺体数は平均40人ぐらい、西方寺で28人ぐらいでした。

華やかで、悲惨な彼女達の生活実態ですが、それを乗り越え年季が明けた遊女を、世間は暖かく向かい入れまていました。
こんなエピソードがあります。最も江戸っ子らしい江戸っ子と言われた作家・山東京伝は生涯に2度結婚しましたが、いずれも花魁クラスではない普通の遊女を見受けし、妻に迎えています。京伝はある時、後輩の「南総里見八犬伝」で有名な作家、滝沢馬琴に語っています。彼女たちはみんな、優しいし、頭がいいし、女房にするには最高だと。

それでは、広重の画を詳しく見ていきましょう。
未だ青味の残る空を雁が飛んでいきます。地平線の先には雪をかぶった白い富士山、その下には暗く描かれた田甫、その中でなにやら行列ができています。よく見るとたくさんの人々が熊手をかついて歩いているのがわかります。その出所が右手に隠れている鷲神社(おおとりじんじゃ)です。

鷲神社(おおとりじんじゃ)は、毎年11月酉の日が例祭で、「酉のまち」と呼ばれ、「儲けを取り込む」熊手、「人の頭になれる」八ツ頭芋、「金持ちになれる」黄金餅(栗餅)などが売られ、商売繁盛を祈る商人や職人で賑わっていました。

この日は、新吉原でも紋日で特別な祝日とされ、普段は硬く閉じている一番奥の西河岸門が解放され、お歯黒どぶに急拵えの橋もかけられ、客と同伴であれば自由に出入りができました。

左端の黒い衝立には鳥襷と呼ばれる紋が描かれ、品格ある店として描かれています。腰板には、ふくら雀が描かれ、皮肉にも「食べ物に困らない様に」「豊かに暮らせる様に」という願いが込められています。

その下には、客と同伴で外に出て、おとり様で買ってもらったのでしょうか、熊手型の簪が数本並んでいます。実は当時吉原では客寄せの縁起物として「かんざし」が大流行し、さまざまなデザインが作られ、客とのやりとりに使われていました。そんな年中行事を渓斎英泉が、海老屋の愛染太夫で描いていました。

真ん中には、格子窓からじっと外を見る白い猫が描かれています。おそらく遊女の飼い猫でしょうが、これが私には、どうしても遊女そのものに見えてきます。
今、衝立の奥ではご主人が仕事に精を出しているのに、この猫はそんなことがまるで無かったかのように、じっと外を見ています。

さて、実際にこの場所に行ってきました。といっても、この場所は正確に割り出せているわけではありません。この写真は、元新吉原の北西の端、千束四丁目の分かれ道で、この先に行くと鷲神社があります。

現在の鷲神社(おおとりじんじゃ)がこれです。江戸時代までは長国寺の境内社である鷲大明神でしたが、明治維新の神仏分離に際し独立、社名を鷲神社と改称しました。
ご神体が鷲の背に乗っている阿弥陀様で、「鷲掴み」に通じることで、出世、武運、開運の神様として人気がありました。今では田甫の中ではなく、ビルに囲まれていますが。

広重の画に現在の状態をはめ込んでみました。
とりあえずこんな状態です。

これではあまりにもオリジナルと違いすぎるので、ApplemapとGoogleEarthと富士山の合成で作ってみました。

さて私は、広重がこの絵で遊女達全体を応援したかったのではないかと考えています。
この画が発行されたのは安政四年(1857年)の11月です。ちょうど2年前の安政の大地震で、壊滅した新吉原も6月から本格的な再建、移転が始まり、この頃からちょうど賑わい始めた頃です。地震では、500人以上の遊女達が逃げ遅れて亡くなりましたが、運良く助かった遊女達も再び新吉原に戻り、年季をこなすために頑張り始めていた時期でした。

画の中の衝立の鳥襷紋、ふくら雀の鳥は遊女達の「かごの鳥」状態を意味していて、熊手型の簪で福をかき集めて、やがては外に出ることを夢見て、じっと外を見る、遊女の代わりの白い猫。考えすぎかもしれませんが、この前年剃髪して法体となった広重の、せめてもの願いがこの画に出ているような気がしています。

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