【堺市の歴史・家康編】家康の謎に包まれた伝説とは⁉ 村瀬先生のぶらり歴史歩き 大阪・堺市 家康編

始まりました村瀬先生のブラリ歴史 歩きこの番組は身ハイスクールの人気講師 村瀬先生が地図を片手に今と昔の町を 見比べながらブラリ 歩き前回に続き舞台は大阪 堺では信長康などな武将ととのりが明らか にそれではブラリ歴史歩きの始まり 始まり今あの大正寺筋っていう筋を歩いて ましてまこれ堺の中では重要な通りの1つ になるんですけどここでね酒石はい酒の 由来ってわかります地名の何かこうもじら れたというかはい栄えているっていうあ 栄えじゃないなあじゃあ教会の酒ですか何 の教会え何の教会海とうん大阪のじゃなく て何かあの隔てるような国大きい国が2つ とかありました大昔この大阪界隈っていう のははいはい何と何と何に分かれてた泉 うん川地でせうんほの境だからここの場所 のことを境って言て話があるんですよねえ ちなみにほら堺のとこさっきのあの人徳 天皇領の近くの駅三国ヶ丘ああはいはい はいはい三の国でしょの国あ三国ヶ丘って そういうことなんですかそうかつてはここ の血この辺りにせ泉川地その3つの境い目 あったから境っていう風に言われたりし てるんですよねなるほど はいちなみに堺市の師匠もこの由来を受け て死の字を3つ組み合わせたものになって いるんです でちょうどねこれ見てください今ちょうど これ我々が歩いてるんが王寺筋っていう とこなんですけどこの石碑見てもらって いいですかちょうどこの筋がなんて書いて ます泉切領国ちょうどこの筋が泉の国と切 の国の両国の酒やったって言われてるはい そういう少時筋っていうとこなるんですよ ねからこそ酒はこの字なんですねそうなん ですよねまさに境い目やったっていう風に 言われてるんですよね [音楽] さ伊藤さん後編もよろしくお願いします よろしくお願いしますおさなりますさあ 今度はですね妙国寺っていうお寺に来たん ですけどはいこれ昔の絵にもねちゃんと 乗ってるんですよあ本当ですねはいここ実 はあるものが有名なんですよねそうですね 日本一の名所にも言われた場所になります へえそれがまだ酒にはあるわけですよなん だろう行きましょうか早速お願いします はいじゃ どうぞA65年1562年に日練習の日光 が開いたとされる 妙国寺かつて日本一の名所とも呼ばれた 遊園と は [音楽] うおえこちらになりますすごないえ立派 ですねちょっと伊藤さん解説お願いします はいこのテはと霊が1200年言われて ます1200年ソテそこまで長生きするん ですねみたいですね国の天然記念物にも なってるソテですちなみにソテって由来 わかるはいその字がある蘇るとかいう字ね ああなるほど蘇るうんこれソテの木がね 枯れそうになるやん枯れそうになったら鉄 の釘をミキに打ち込むねんてえほんなら 勢いまして読 そんな荒い治療の仕方なんですかていう ことから鉄って言われるっていう話はある ぐらいですよねはいただ鉄って成長が すごく遅くて1年間で1cmしか伸びない 言われてます手前に見える小さな パイナップルみたいな素ありますよねあれ でも例が50年先生同年ぐらいて ことごめんな俺の方が成長てれ もう記念物でもあるこの立派な大鉄には 驚きの伝承があるん です織田信が天下統一の仕上げの時に酒井 に来たんですね酒井お金持ってますから その時にこの妙国寺の近くまで来ると 人だかりがすごいんですよ日本一や日本一 やうん騒い出るんですねそ信長としては ちょっとこれ見逃すわけに聞き逃すわけに いかないですよねという 敏感な男ですからやっぱりそれ聞き逃せな いっていうことでここの妙国寺に入って くるとなんとこの立派な王鉄そっかお目に するんうんはいでこれは立派だただこの大 鉄はあ地上にこそ似合うロムがらしいな らしいですね何もかも自分のもにしたかっ たんでしょうね城に持ってこいうんで当時 の信長にからえる武将はいませんよねい ませんよねであ地上に持ってきてそこの 周りで立派なソテを見ながら武将たちが 宴会するんですねうわあ時代やなかっこ いいですよねピでもやっぱり中のこま言う たら鶴の一声で動かないといけなかったん ですねあ遠いよしいよ今で言うたらほね 宴会が終わった時に信長含めてみんなが 寝静まった時に 音がするんですうん蘇鉄の方から酒に帰り たいわ妙国寺に帰りたいええ蘇鉄が泣くん ですねうん織田信怒りますそあ怒っちゃう んですかはい長の気象からしたら何言う てんねんてもんですよねで部下に命じて 切らせてしまったところ切り口から血が 流れててはいへえ 怖いあかも竜がのたうち回ってるように 見えたことから うんってきました天下を統一した信長が 自分のものにできなかった数少ないものか もしれないですねそうです ねなんともがらしい豪快な 伝説そしてこの身隠実はある伝の始まりの 地でもあるん ですここはも あるお寺ですので有名な武将がたくさん 泊まりに来ていますあその1人がえ徳川 家康なんですねえ私思ったんですよ入って くる時にうんいっぱい家紋がありました すごいあなたすごいね河原のとこにねはい そうですねバイがでもなんか徳川県と特に この大阪っていう土地があんまりこう 馴染みがああれそうきますあなんか先生の なんか悪いかもしるいよいよいよね伊藤 さんやっぱり境いから徳川家康がって言う たらあの話をしないといけないですよね ありがとうございますまさにその通りです 実は 1582年に徳川家康がここの妙国寺に 泊まりに来ましたうん堺見物京都見物した んですねで見物した次の日にここの妙国寺 で本寺の変を聞いたんですようわそんな タイムリーな場所だったんですねはいそう すると家康は次が自分が殺される分かって ますからうん少ない武将を連れてここから いわゆる伊賀越ですねうん超えて自分の 領地まで帰っていったっていう出発点が ここになりますあ出発点がここだと思うと もうすぐそこに海があるで安全ではないか もしれないけどく帰る方がある中でリクを 選ぶっていうのがそうですね海の方は きっと相手方に抑えられてると思ったのか も分かりませんです ねそして3人の後ろの庭園は徳川家康に 使えた策定下小演習によるもので家康が 心安らかに滞在できるようにと両地であっ た駿の国を表現しているんだ そう名だたる武将が訪れた酒かつては重要 な場所であったことがよくわかりまし [音楽] たさ続いてなんですけどもこちらのエズを ちょっと見てくださいここにお寺があるん ですよね大きな立派な立派ですねはいここ は酒でも歴史のあるお寺の1つの 実はこのお寺には歴史が大きく変わるん じゃないかっていう言い伝えがあるお寺で もあるんですね歴史が変わる はいということで3人はお寺の中へまずは 南州寺の歴史についてここのえお寺は三吉 長良っていう阿房の部将ご存じですかね 織田信長の前の天下人ですうんえその美義 長良が父親の美義元長を供養するために 1557年にここのお寺を作ったのが 始まりなんですねうんでえここにずっと 並んでますのが三永よと父親の美本永うん だと美義さ兄弟とかのお墓ここにあります 家紋が三長良の家紋になりますはいうん3 回に5つ釘抜きていう名前で呼ばれてい ます3回Bはね皮型が3つなので3回日な んですが実はこの四角の1つは釘抜きです 釘抜くやつですねねあちょっとそれが家紋 っていうのは違和感があるかも分かりませ んが釘抜きコのの城を抜くと書いて釘抜き と読ませましたのでここの1つの釘はい は実は戦国部将にはすく演技がいい家に なりますので釘抜き使ってる部将っていう のは多いです多 ですそんな何時には国指定名称のカ山水の 庭や家一文の刀などがあり見所も盛 だくさん そして歴史が大きく変わるかもしれない 出来事とは の場所は昔海山道というお道があった場所 になりますはい海山道の円の下にここの 卵型の火がはいあり円の下に隠されてまし た円の下になですねはい実はこれは徳川 家康のお墓なんですよねうん えと思われますよねうん一般的には徳川 家康は大阪夏の人の次の年 [音楽] うん私もよくそれは話として覚えてます じゃなぜここに実はこの堺には別の 言い伝えが伝わってまして徳川家康は大阪 夏の人の時のチャウス山の戦いで真田幸村 のハカの五藤ま槍のていうですね籠に乗っ てるところを槍で上から刺されてうんえ そんな話になってるんですかはいで酒まで 逃げてきて家臣が加を開けてみたら絶命し てたんですねイアがていう話いう話がある んですかただ徳川型の大将ですから敵にも 味方にも知られたら偉いことになりますよ ねうんそうですねなのでここの小道の下に 隠して目印としてこの塔を置いたいう 言い伝えがあります日光の東小宮に行き ますとえこのようなうんかがありますあ はいはいはいあ先生これここ見ていただき ますと穴開いてますよねはい五藤まが槍で さした後だうん言われていますほほま ほんまのことは分からないですが家康が 影武者だったんだって考えた方がちょっと ロマありますよねそうですね はいそして昭和に入りあなたに家康の白が 立てられましたその裏には松下孝之助の 生山さらに北人である三木市は水戸徳川家 の過労を先祖に持ち徳川家とも深い繋がり があることからより信憑性が高まります 徳川イエス墓の上にねまだちょっとなんか 書いてるんですよ少し上がっていたいても 大なですえ読めるか なあえおほ東宮はい東小宮っていうのは 徳川家康は祀られてるところが東小宮です ね実はそこのカモの向こう側に昔は東小宮 がありまし た昔はありましたありましたちょっと戦争 で焼けてしまったんですがでも東ってい 山はい日日光のイメージがあはい地名が つきますよね最初にところがここの東小宮 は地名つきませんそこに書いてあったよう に東小宮っていう名前だったそうですうん えなぜかて言いますとここが元々だった おっしゃる通りです1番最初だから東軍 って言いましたそうですよねそれがあって あ日光にもできるから 山そうですねことも東のま言うたら元祖と いうかなんというか大元ですね かなのでえまそういったことからもここが 家康がなくなった地だったじゃないかな いうことにもなりますうんさらにカモの河 にも三葉青いの家紋が施されておりより 徳川家との繋がりがあったことが伺えます 記録でねはいこのお寺にはい第2代将軍 日田だと第3台将軍家光が立て続けに訪れ たっていう話あるんですよねはいあよくご 存知ですねこれですよねはいえそんなん もうなんで来るんやって話やんはいそら お父さんおじいちゃんのお墓参りですよね そうです ねえ板書が残ってまして2人ともに来た いうのには誠 大将軍秀うんうんうん誠大将軍家光って 書いてます2人ともなぜかって申しますと その7月と8月の間に京都の伏見城で将軍 の上位識交代する式典があったんですね うんなのでその前後に将軍を譲った秀が 譲る前はいで譲た後の家がここに来たって いうのは自分のご先祖様が亡くなった場所 だからお参りに来たんですねそうですねま いい報告をしに来られたってことですよね はい家康は酒で酒にお墓が あるあらじゃ次ちょっとあの日がね リニューアルされる時は松下孝之助その谷 に 秋山行っとこかかけるもんなら書けたい ですけど賛同するやろもちろんここの堺の 町は大阪夏の人の時に豊富型に火をつけ られてね焼けの原になったんですねその後 待ち割りをしてくれたのが徳川型でしたの で堺の昔の市民っていうのは徳川家康に 対してすごく愛着心持ってるんですねうん なるそういったことからもやっぱりここで なくなったっていう言いが始まったのかも わかりませんねん [音楽] 続いてやってきたのは毎年9月放神社で 行われる秋祭りに花を添えるえのき布団 大子の小屋 へ今回特別に布団大子を見せていただく方 にきこれ近くで見たらこんな大きいんです ねそうですねなかなかこういう間近で見る 機械はうんあの勝木で以外はないかと思う ではい私たちの江木布団大子は放置神社に えあの奉納させてもらってるお祭りになり ます布団大子はい知ってる初めて聞きまし たでも見てこれどう見ても布団ですね5枚 布団がありますよねはいこの通り5段に 重ねた布団諸説あるんですが新色のされる 地とは別に地域のうこうんはいがあの放 するにあたりうんえま前夜祭とかでですね 神様に来ていただくとうんうんいう考え方 の元昔の後期な色ですね赤とか紫とか赤い 座布団の上に座っていただいて地域を 訪ねるとしていただくっていう風な意味 合いがあるという説がま有力なのかなと はい力ということはやっぱ僕らの理解とし てはこの布団の上には神様がお座りにな るっていうイメージでいいですかいそう ですねそう考えていただいた方が一番はい 分かりやすいかな とおよそ2Tあるという布団大下担いで いる様子はとても迫力があり人々を魅了し ます掛け声がちょっと独特なんですよ 掛け声どんな掛け声なんですかはい シャッターに書いてた歌を歌うんですが その合にあのベラベラベラしょっしょいと 境のほとんどはもうそのベラベラベラしし いうのが基本なんですがうん実際の様子が [拍手] こちらこれもまいろんな諸説あるんですが 5国法場のま奉納という意味合いから米が 酔いでベラではないかとああなるほど米が 酔い言たら作になりますように米が しっかり実りますようにっていうのが出発 点なんですかはいまた今年はい作で ありがとうございますっていう意味では ないかとうんいう風なことが言われて ます最後に吉田さんが思う布団大子の魅力 とは約50人の男たちが勝わけなんですが 気持ちと呼吸と足並みを揃えないとこれは 動かないんですああ全員が気持ちと呼吸と うん足並みを揃えて初めて動くはいはい なんでみの力を しなければならないなるほどでそういう ところが布団代行の魅力かなと私は思って ます今後地域でこの布団代行をどういった 形で大事にしていこう広めていこうっての はありますかうんはいあの地域のま コミュニケーションはいコミュニティの 絡めとして若者からお年寄りまでの コミュニケーションツールとしての意味 合いとでまたあの先人から受け継いた文化 の継承という1つの形として伝えていこう とうん考えてます 今回のブラリ歴史歩きはここ まで2人が巡った地図はご覧の通り小田 信長や徳川家康とも深い繋がりがあり様々 な史跡や伝説が残る世界は歴史において とても重要な場所であることが分かりまし たいや古代から近代まで本当歴史スポット 目しでしたね大阪といえばま特に武将で 言うとだったりうんが多いと思うんです けどあ家康の話がここで出てくるのかと やっぱ地元合がすごくこの歴史を大事にし ているこの環境にもすごく残っていますよ ねうんまやっぱりそら世界遺産をね持つに ふさわしいそれを継承していくに ふさわしい大都が酒やないんかなって思い ますよねそうです ね次回は大阪箕をブラリ 歩きそれではまたお楽しみに T [音楽]

【村瀬先生のぶらり歴史歩き】#66 大阪・堺市 家康編
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前回に続き舞台は大阪府堺市。
信長や家康など有名な武将との驚きの繋がりが明らかに!

妙国寺のソテツ、信長と関わる伝説とは⁉
南宗寺に家康の墓⁉
堺の秋祭を彩るふとん太鼓‼

村瀬先生がわかりやす~くご案内します!

出演:村瀬哲史・秋山未有

00:00 オープニング
00:38 堺の地名の由来とは⁉
02:32 信長、家康が訪れた妙国寺
09:16 歴史が変わる⁉南宗寺に残る家康伝説
17:34 堺の秋祭を彩るふとん太鼓

【大阪・堺市 古墳編】はこちら

eo光チャンネル 「村瀬先生のぶらり歴史歩き」
この番組は、大手予備校、東進ハイスクールの人気講師・村瀬先生が古地図片手に、今と昔の街を見比べながらぶらり歩き様々な歴史スポットをたずねる番組です。
古地図を見れば知らない歴史が見えてくる!

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#村瀬先生 #秋山未有 #大阪 #堺市 #徳川家康  #eo光チャンネル #eo

31 Comments

  1. 徳川家康の大阪死亡説を裏付けるようなロマン…地名の付かない本家?「東照宮」が堺にあった事。さらに秀忠、家光が相次いで参拝した記録が残っているとは…。
     今回もおもしろかったです♪

  2. 南宗寺に隣接するかたちで松永久秀の妻 広橋保子の廟があります。
    広橋家は武家伝奏(執奏)の家柄であります。
    南宗寺のガイドさんも「家康の墓」の説明に力を入れられておりました(ワタシはうんざりしてましたw)

  3. おお!榎の太鼓やん!!
    太鼓大好きで、家の近所も映ってたので見てて楽しかったです^ ^

  4. 朝にウォーキングしてる時に南宗寺さんにお参りした時に家康の墓石を発見して不思議に思って調べたら、この動画の概要くらいを知りました。
    すごくわかりやすい解説動画に感謝です。
    勉強になりスッキリしました。
    ありがとうございます😊

  5. 堺でボランティアのガイドの方に案内いただいたことがあります。分かりやすくとても楽しかったです。あのときはありがとうございました。

  6. 妙国寺の近辺は幕末に起こった堺事件の現場でもあります。

  7. 徳川家康が真田幸村に討たれたのか❓😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮

  8. 一応、全国を掌握した家康だから、どこに墓があっても、ヘンではないでしょ。

  9. 家康の墓石があっても遺骨がないというのはなぁ。それなら京都の南禅寺金地院の東照宮の方がまだ終焉の地の可能性が高い。あそこには家康の遺髪があるから。

  10. 家康の件です。1623年(元和9年)二代将軍・秀忠、三代将軍・家光が相次いで来院したと言われています。動画では死んでから南宗寺に運ばれたと言われていますが、実際は虫の息の状態で南宗寺に逃げ込んだものの、座敷に上げて治療していると追っ手が来たときに直ぐに見つかってしまうのでお堂の縁の下に運び込み医者を呼んだが家康は息を引き取ったので、そこに遺体が埋められ、小さなお墓が作られたと、堺では言い伝えられています。

  11. 先生の堺についての動画を全て見ていませんが、堺生まれの堺育ちの私は、昔は堺と書かずに左海だったと聞いています。
    また、灯籠にも左海と彫られています。
    その辺の話がされている動画があれば教えて下さい。

  12. 京都にあるお茶の表千家と裏千家は、共に千家の分家筋で、千家の本家は堺。しかし、堺の千家本家は、後継者が絶え、断絶。表と裏の両千家は、堺の本家筋の名跡を再興すべき。

  13. 南宗寺は小学校の同級生の家だったんだけど、その頃は歴史に関心がなかったから、境内でかくれんぼや鬼ごっこして遊んだ記憶はあるけど、建物や史跡については全然覚えがない。
    今度実家に帰ったら、久しぶり行ってみよう。

  14. 村瀬先生
    堺事件、妙國寺事件も取り上げて下さい
    外国人から堺を守った土佐藩の英雄達を

  15. 子供の頃から妙国寺の中で遊んだものです。ソテツに登ったり子供ってしゃーないですね。柿の木や琵琶の実、いちじく等色んなものを食べまくりました。その当時のお坊さんは地域の子どもたちに怒ることもなかったです。その当時の子供たちにとって最も安全な遊び場でした。

  16. 妙国寺の裏の高校に通ってました。
    高校で聞いた話では三国ヶ丘の辺りは昔の「堺」ではないとのことでした。
    故に生徒交換で共学にする際に三国丘高校の希望した「府立堺高校」という名前を頑として認めなかったとか…

  17. 徳川の位牌は泉南の南泉寺に14代までの分あるて南泉寺、兼 槇尾山施福寺の住職の津鳥さんが言うてはりましたで

  18. 堺住みなのに知らないこと多くて勉強になりました!ありがとうございます。

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