京都御所 Kyoto Imperial Palace #shorts #shortsfeed #観光

京都御所とは

所在場所: 京都御苑(面積92ha)北西寄り、仙洞御所の北西方向にあり。
      平安時代の「内裏」よりも1.7km東にあります。794年の平安  
      京造営時の御所は現在の千本丸太町付近にありました。
      現在の御所は北朝の初代、光厳(こうごん)天皇が
      1331年、土御門東洞院で即位して以来、この場所にあります。
      歴史上7回の火災に見舞われて一番最後は幕末に発生しまし
      た。

南北距離: 453m
東西距離: 254m
周  囲: 1,414m
敷地面積:  11ha
再建年度: 1855年 再建時に仙洞御所と同じく築地塀が造られました。

見どころ:

■御車寄(おくるまよせ)
清所門から入って最初に視界に入ります。高位の貴族などが参内(さんだい)した際に儀式や天皇との対面のために使用した玄関で、ここから諸大夫(しょだいぶ)の間や清涼殿、小御所などと廊下で繋がっています。

■諸大夫(しょだいぶ)の間
御車寄の南側に廊下でつながっており、正式な用事で参内した公家や将軍家の使者のための控えの間。身分に応じて部屋が決まっており建物に向かって右に行くほど身分が高く、部屋の襖の絵にちなんで「虎の間」「鶴の間」「桜の間」 と呼ばれています。襖絵は身分の高い奥から順に下記の通り。

1. 虎の間: 虎図(とらず)。作者は、岸 岱(がん たい)
2. 鶴の間: 鶴図(つるず)。作者は、狩野 永岳(かのう えいがく)
3. 桜の間: 桜図(さくらず)。作者は、原 在照(はら ざいしょう)

また、畳縁の色や部屋への入り方にも身分の違いが反映されており虎の間、鶴の間を使用する者は正式な玄関である御車寄から参入しますが、桜の間を使用する者は建物の左(西)にある沓脱石(くつぬぎいし)から参入しました。現在、それぞれの間の襖絵はガラス戸を通して見ることができますが、光の反射で中は見えにくく、それぞれの襖絵の画像と作者の名前を記載したパネルが置かれています。

■新御車寄(しんみくるまよせ)
1915年(大正4年)、大正天皇の即位の礼が紫宸殿で行われるのに際し、馬車による行幸に対応できるよう新設された玄関。読み方が、既存の御車寄(おくるまよせ)とは異なり、新御車寄(しんみくるまよせ)となっています。天皇が御所の南面から出入りされた伝統を踏まえて南向きに建てられています。現在でも天皇皇后両陛下が京都御所を御訪問の際は、黒塗りの車で京都御所の南にある建礼門を通って、こちらからお入りになります。

■紫宸殿(ししんでん)
京都御所で最高位の正殿。即位の礼など重要儀式の場所。この建物は1854年の大火で焼失した翌年、1855年(安政2年)、古制に則って平安時代の建築様式で建てられました。1868年(慶応4年)、「五箇条の御誓文」発布の舞台となり明治、大正、昭和、三代にわたる天皇の即位の礼はこの建物の中で執り行われました。周囲を囲む回廊の西側には「月華門」、東側には「日華門」があり、紫宸殿の正面にあたる南側には「承明門」があります。回廊に囲まれた白砂の庭は「南庭(だんてい)」と呼ばれ、即位の礼の際は、この庭に旗などが並び、殿上には皇族、諸大臣、外国使臣などが参列しました。紫宸殿から見て左側(東側)に「左近(さこん)の桜」、右側(西側)に「右近(うこん)の橘」が配置されています。

■建礼門(けんれいもん)
京都御所の南向きにある正門で普段は閉まっており、天皇皇后両陛下および国賓が来られた際にのみ使用される格式の高い門です。かつては即位の礼など紫宸殿で行われる重要な儀式の時に開かれました。

■清涼殿(せいりょうでん)
 平安時代中期(10世紀頃)から天皇の日常のお住まいとして定着した御殿であり、政事・祭事などの重要な儀式がここで行われました。1590年(天正18年)に御常御殿にお住まいが移ってからは、主に儀式の際に使用されました。この建物は1854年の大火で焼失したものの、伝統的な儀式を行うため、翌、1855年(安政2年)に古制に則り、平安時代中期の建築様式で再建されました。中央の畳を敷いた部分は「昼御座(ひのおまし)」と呼ばれ天皇の日常の御座です。

■春興殿(しゅんこうでん)-大正天皇の即位礼にあたり造営

■小御所(こごしょ)
 鎌倉時代以降建てられるようになった御殿。江戸時代には将軍や
 大名などの武家との対面や儀式の場所として利用された。明治維新で
 将軍に対する処置を決めた「小御所会議」の舞台。
 1954(昭和29)年に焼失、1958(昭和33)年に再建

■御学問所(おがくもんじょ)
1613年(慶長18年)に清涼殿から独立した御殿で御読書始(おどくしょはじめ)や和歌の会が行われた場所。1867年(慶応3年)に、ここで明治天皇が親王・諸臣を前に「王政復古の大号令」を発布されました。建物は上段、中段、下段の間を含む6室からなり総畳敷です。

■御池庭(おいけにわ)
池を中心とした回遊式庭園で右手に欅橋(けやきばし)が架かっています。池の手前は石を敷き詰めた洲浜で中央に船着きへの飛び石を置いています。この池に向かって左手、木々に囲まれて石灯篭と、その向こうに池が見える辺りが絶好のポイントになります。春の新緑や秋の紅葉の時期には、ここからの風景はインスタ映え間違いなしです。

■御常御殿(おつねごてん)
清涼殿内の常御所が1590年(天正18年)に建物として独立したもので天皇の住居かつ儀式や対面の場として使用されました。南側に上段・中段・下段の間を備えています。建物の内部には神器を納める剣璽(けんじ)の間や天皇の寝室「御寝(ぎょしん)の間」など15室全てが畳敷となっています。

■御内庭(ごないてい)
御池庭の北側にあり御常御殿の正面にある庭で曲折した遣り水を流して、随所に土橋や石橋を架け灯籠や庭石を配置した風雅な御庭です。

〔備考〕
御所敷地のもっとも北寄りの区画はかつての後宮だった場所で、多くの建物が撤去されていますが、皇后御常御殿、飛香舎(ひぎょうしゃ)をはじめ、皇后や皇子皇女などの住まいだった建物が残っています。建築様式は、表向きの建物である紫宸殿や清涼殿が平安時代の住宅建築様式である寝殿造を基調としているのに対し、これらの北にある内向きの建築群は書院造や数寄屋造の要素が強くなっています。ただし、表向きの建築物にしても外向きの建築物にしても寝殿造への復古は平面関係や障壁画や建具などについてであり、外観や立面関係、細部の建築方法は平安時代とは異なった江戸期の技術を用いた仕様となっています。江戸期の庭園は、紫宸殿の南庭(「だんてい」と読み慣わしている)や清涼殿の東庭が一面に白砂を敷き詰めた儀式の場としての庭であるのに対し、小御所、御学問所、御常御殿などに接した庭は池と遣水(やりみず、流水の意)を中心にした日本式の庭である。各建物の内部は、それぞれの部屋の格や用途に応じた、さまざまの障壁画で飾られています。これらの障壁画には、狩野派、土佐派、円山四条派をはじめ、江戸時代末期の日本画壇の主要な絵師たちの手によるものです。京都御所は、平安時代の内裏とは位置が異なり、当時より1.7km東に位置しています。建物は江戸時代末期の再建ですが建築、庭園、障壁画が一体となって日本の伝統文化をよく表しています。

Write A Comment