横浜南区中村町の暗い歴史【タイムスリップ明治・大正・昭和】
みなさまこんにちは、YokohamaDeepラボのヨコケンです 今回は、南区中村町周辺について詳しく見ていきたいと思います 中村町は、南区の中央部に位置し、南区役所の後ろを流れる中村川に沿ったエリアです ここは、暗い過去を持ち、光の当たらない影のエリアであるが 横浜発展の礎として、数々の災害から立ち上がった人々の
献身的な努力で横浜を支えてきた町です 動画では、現在の姿を見ながら、この地域の歴史を
次のようなセクションでみていきたいと思います まずは、この町の今の顔から見ていきましょう 三吉橋通商店会と、役目を終えつつあるドヤ街 横浜橋通り商店街のアーケードの道を挟み反対にあるのが
「日本一かわいい商店街」と言われている三吉橋通り商店街。 角に「ミヨシバシセンター」というかすれた文字があるが、昔のゲームセンターらしい。 シャッターが降りたままの店もあって雰囲気は、若干やさぐれ気味。 この商店街にひときわ目立つ存在が「三吉演芸場」である。 三吉演芸場は大衆演劇の常設小屋、いわゆる芝居小屋。 開演の時間には太鼓の音でしらせ、公演終了後にはお客様を待つ役者さん達もみられ、
現在も多くのファンに愛されています。 中村川を渡った向こう側の中村町には、もう一段階風情を増した商店街が続いている 個人経営の居酒屋や廃墟となっている商店もあり、寂しい事になっている。 ここは寿町と比べると存在感に欠けるが、同じくドヤ街であり
住宅街に紛れて今も簡易宿泊所が残っている。 ドヤ街は時代が進むにつれその役目を終わりつつあるが、やはり独特の雰囲気がある。 商店街の脇を入ると中村町の街並みが現れる。 普通の下町かと思うと少々事情が違うような、長年放置されたような
トタン住宅がいくつも見かけられこれも横浜の歴史の一面である。 現在は静かな住宅街で、公共の施設が多いこの中村町ですが
数々の悲しい歴史に刻まれている。 次のセクションからは、そんな歴史の爪痕をひとつずつ見ていこうと思う。 次に、大正12年に襲った災害 関東大震災と、揮発物貯蔵庫の爆発炎上 ここ中村町には「道場」という地名があり、そこには広大なる
「揮発物貯蔵庫」および「衛生試験場」があった。 現在道場という地名はなくなったものの、中村小学校前にある橋の名前で
その記憶を残している。 大正12年(1923年)突如として襲った関東大震災。 横浜は震源も近く非常に大きな災害に見舞われたが
この中村町は特に大きな被害にあった。 建物の倒壊も激しかったが、より被害を大きくしたのが火災であった。 揮発物を扱う揮発物貯蔵庫にとって最も恐れていたのが火災である。 大量の石油に引火し、大爆発が連続して起こってしまい
被害は数千人に及んだと記録が残っている。 現在その場所は、静かな住宅街と公共の施設で占められているが
再起不能なほどの大変な災害となったこの地域が ”どのように”、”誰の手によって”復興していったのでしょうか。 そこには意外な人たちの尽力が存在したのです。 続いては、震災復興について 焼け跡に建設された仮病院とバラック村(関西村) 関東大震災による被害は甚大で、 特に大きな被害となった揮発物貯蔵庫の跡地を復興するには
資材や物流、そして人力も必要である。 その震災救護にいち早く立ち上がり行動した人たちがいた。 それが大阪、京都など8府県による「関西の府県連合」であった。 府県連合は救援のため、バラックの長屋や学校、患者1,000人を収容できる仮病院
食堂、市場、警察署など復興に必要な組織を作り上げ復興に尽力した その結果、この地域一帯はいつしか関西村と呼ばれるようになり、約2000人が暮らした
とみられその充実ぶりは「すこぶる異彩を放っていた」と記録が残っている。 推測であるが、人の往来が多くないその時代に、同じ日本人でもイントネーションや食文化
が異なる関西村が形成されたことは、 周辺にとって異質な光景でもあったと思われる。 この関西村は、都市機能を喪失した地域に対し
被災地ではない自治体が連携した画期的な支援であった。 南側は横浜市水道局の敷地が、西側には中村小学校と中村地区センターがあって
かなり広範囲に公用地で占められている事が分かる。 年季の入った神奈川県警察の武道場もあり
警察学校として建設された建物がそのまま使われている そして、この地域のシンボルともいえる、「衛生試験所跡」を、次に詳しく見ていくことにする 歴史的・文化的な建造物 神奈川県埋蔵文化財センター(旧中央衛生試験所) この中村地区でひときわ異彩を放つこの建物。 これは昭和2年(1927年)に建設された「神奈川県中央衛生試験所」の現在の姿である。 正面から見て、中央が三階建て、左右が二階建ての左右対称の造りで
通る人の目を惹きつける存在感を放っている。 現時点では玄関や門に読み取れる看板や表札などはない。 中央衛生試験所の円滑を調べてみると ・明治35年(1902年)海岸通りにペスト検査所 ・大正元年(1912年)扇町5丁目に移転し細菌検査所とペスト検査所を統合 ・大正8年(1919年)に近隣火災によりこの地、中村町に移転 ・昭和2年(1927年)に鉄筋コンクリート造りに建て替え ・昭和12年(1937年)木造別館を増築し中央衛生試験所と名称を改めた。 横に回ると「神奈川県埋蔵文化財センター」とあり、そちらがこの建物を管理している。 取り壊しをせず、残っているのはこの建物も、文化財としての価値を見ているのか
またほかの理由があるのかはわからないが、現在何も使われていないことだけは明らかだ。 さらに横に目を向けると、結核予防運動世界共通のシンボルである、複十字が掲げられた
「神奈川結核予防センター」があり、現代もその歴史をつないでいる。 次にこの地域がその役割を果たした「近代医療の発展」について見ていくことにする 横浜市大病院 近代医療の発展・伝染病研究の避病院と十全病院 横浜における日本人の手による近代的病院のおこりは、野毛に置かれた「横浜軍陣病院」で
明治7年(1874年)にその名称が「十全医院」に変わった。 開港した横浜は海外文化の窓口になり、産業や技術が急速に入ってきたと同時に
コレラ等の伝染病の窓口にもなってしまった。 そこで、この地区には「横浜避病院」が設立された。 避病院とは、伝染病予防法で規定された、法定伝染病の患者を隔離・収容していた
病院の通称である。 横浜避病院は明治24年(1891年)に神奈川県から横浜市に移管され
十全病院の付属となった。 その後大正13年(1924年)に浦舟町の現在地に移転、昭和19年(1944年)に
横浜市立大学医学部の付属病院となった。 市大病院の正面玄関にある碑には ・明治初期の近代医学の黎明期にあって、この病院が先進医療・防疫に
大きな功績を果たしたこと ・関東大震災では、火災に見舞われながらも十数万人の被災者の治療にあたったこと が記されている。 今も市大病院には、医学の研究・発展・教育に貢献された6100余りの病理解剖
そして実験動物を供養し崇拝する慰霊碑もおかれています。 続いてはこの地を流れる川 だるま船が係留してい中村川と浦舟水道橋 中村川の歴史は、江戸時代までさかのぼり、かつては「吉田新田川」とも呼ばれていました。 横浜の水運や関門に欠かせない川であり、地域の生活や産業と密接に結びついています。 しかし、だるま船と言われた不法係留の船がこの川を埋め尽くして
その光景を記憶している人も多いのではないでしょうか その後平成にかけ浄化され、現在ではすべて撤去されたが
首都高に覆われ今も陽が当たることは少ない。 その中村川にかかる浦舟水道橋は存在感が大きい鮮やかな赤いトラス橋である。 明治時代から使われている古い橋で、現在は歩道専用であり、日本最古の現存する「ピン結合プラットトラス橋」である。 明治26年(1893年)にイギリス製の鋼材を使用して架設され、その後昭和2年(1927年)に
この場所に転用され、現在もその力強い姿を残している 次に、南区行政の中心 震災復興小学校と医療研究施設跡地に建つ、南区役所 現在南区総合庁舎のある場所は、震災復興小学校の第1号である
三吉小学校のあった場所である。 三吉小学校というのは、いわゆる復興小学校といわれて
その当時に沢山建てられたのであった。 戦後、私大医学部校舎となり、解剖室や寄生虫学教室、動物飼育室もあった。 その後、同校舎は平成13年(2001年)に用途廃止になって以来
利用されないままになって残っていたが、 平成22年(2010年)に取り壊しされ、現在はこの敷地に南区役所が構えたつ。 南区総合庁舎1階受付前のコーナーには関東大震災以後の出来事が紹介されています。 ここまでこの地域に刻まれた歴史を見てきましたが、最後にここの守り神にお参りします 中村八幡宮に残る地図測量と震災慰霊碑 この地には古来より鎮座する「中村八幡宮」がある。 中村八幡宮には ・明治14年(1881年)に内務省から発行された「横浜実測図」
の几号高低標を示すベンチマークである地理寮水準点 ・横浜大空襲の高熱で割れ、上半分を失った震災慰霊碑 ・境内でのお百度参りの標識として立てられたお百度石 があり、地域を見守り歴史を刻んでいる この神社も静かに、この地域の歴史を見続け、地域の発展を願う歴史が刻まれている さて、今回は、南区中村町とその周辺地域の歴史について見てきました 令和の現在、大都市であり観光都市、そんな横浜の中心には、日は当たらなくても 多大な貢献をした地域と人々がこの中村町です。
感謝をしてこの動画の締めくくりとしたいと思います。 横浜ディープラボというユーチューブチャンネルを立ち上げて、約4か月 横浜が好きで、価値のある動画を提供したく、企画と動画制作をしてきました。 またこれからも地元の魅力を再発見し、探求していく動画を目指していきます。 最後までご視聴、ありがとうございます。 もしよろしければ、チャンネル登録していただき、また次の動画でお会いしましょう
■この動画は「横浜タイムスリップ」「令和に残る明治・大正・昭和の光景」として南区にある中村町とその周辺を見ていきます
■令和の現在、大都市であり観光都市、そんな横浜の中心には、日は当たらなくても多大な貢献をした地域と人々がこの中村町となります
■この動画で紹介しているのは以下内容になります
(1)三吉橋通商店会と、役目を終えつつあるドヤ街
(2)関東大震災と、揮発物貯蔵庫の爆発炎上
(3)焼け跡に建設された仮病院とバラック村(関西村)
(4)神奈川県埋蔵文化財センター(旧中央衛生試験所)
(5)近代医療の発展・伝染病研究の避病院と十全病院
(6)だるま船が係留してい中村川と浦舟水道橋
(7)震災復興小学校と医療研究施設跡地に建つ、南区役所
(8)中村八幡宮に残る地図測量と震災慰霊碑
横浜の魅力を再発見しましょう
VOICE VOX剣崎雌雄
20 Comments
中村町、ある意味今の横浜で一番ディープな場所ではないでしょうか。
まさに、このチャンネルのタイトル/ヨコハマ・ディープ・ラボを、具現化した興味深い動画でした
今後も普段あまり語られない内容の動画を期待します
以前うらふねで働いてた時に三吉橋そばの肉屋さんが弁当売ってて自家製シュウマイが絶品だったな
興味深い内容でした。
私はこの地で育ちました。
子どもの頃は商店街はとても賑わってましたが、今となってはとても寂しいですね。
ありがとう❤
これからも楽しみにしています😘
ありがとうございました。なぜこのエリアだけ高層建築が無いのか?ずっと不思議でした
生まれも育ちも中村町4丁目、中村川沿いです。60年以上住んでました。
今は引っ越しましたが家が写ってなくて少し残念😢
懐かしく見させていただきました。
歴史を紐解くと興味深いです
今度ゆっくり歩いてみますね
私の現住所です。横浜の下町で地元住民はこの土地に長く住んでいます。しかし最近では新築住宅は中国人が買い漁ったり中近東、韓国などのアジア系の人達が住み始め治安が悪くなりました。また、反社や不良の方が多いので他県からの移住にはハードルが高いです。
私は65歳のオジサンです。横浜市生まれで、石川町5丁目や中村町1丁目に住んでました。1970年ごろに屋台の串揚げ屋が何店かありました。今思えば関西出身の方々がやっていたのではと推測します。ダルマ船は私が中学時代まで数多くありました。港湾作業に必要な大きな桟橋が無かった時代に外国船の荷物を運んでいた名残ですね。私のクラスメートもダルマ船に住んでいました。
子供の時におばあちゃんの家があったからよくおばあちゃんに小遣い貰って駄菓子屋さんに行きました!けんちゃん屋とか他にも2件駄菓子屋さんあったけど大人になって中村町行ったらけんちゃん屋しかなかった。もうけんちゃん屋もないのかな?
母の実家が狸坂にあったので、親しみのある町ですが、横浜橋商店街は随分と変わってしまいました。
昭和30年代には、お爺さんの新粉細工の屋台が有り、いつも母が買ってくれました。母とその実家もなくなり、今では区役所に行くだけになってしまいました。
戦前には、女優の岸恵子の一家が近所に住んでいたそうです。
南区のこの周辺やお隣の中区とかこの手の話になると話題が尽きないですね
今の人達は皆みなとみらいの方ばかりしか関心がないようですが山手や本牧、
この界隈が本当の横浜だと思っています
これが本当の横浜かも?
懐かしい風景です
横浜ってブルーライトとか中華街とか山下公園のイメージありますが…深いですね~
昭和時代に住んでました。
私が住んでた時は中村川で
ハゼ釣りの名人がいましたよ!
船で住んでる方もいましたよ。
現在は横浜商店街を
通ると中華や韓国の
ばかりでかなり変わって
びっくりです。
そのうち日本が移民国に
なる危機を感じました。
近隣の日本人はどう思ってる
のかと思います。
余談ですが、とんねるずの
番組で当時、安価で美味しい
焼きそば屋がありました。
もうないけど、、、
たのにしています❤
中村町の反対側が黄金町