No.226🩵その② #宇多津町文化財保護協会 #呉市 #御手洗伝統的建造物群保存地区 39人参加…大型バス研修旅行へ行ってきました。(その①は #大和ミュージアム)です。概要欄に資料を追加する。

◎2024/12/01(日)記載。  横田 惠子

🚩御手洗地区ガイド ⬇️
https://soinew.com/guide/detail/16_wakiya.html

🚩オランジーナCM撮影があった水色の建物(理髪店💈)
呉市の大崎下島にある御手洗地区。少し前にサントリーの飲料オランジーナのCMロケ地にもなりました。コロナ前にはJR西日本の旅ロケ地にも。
毎日40〜50人くらいが写真を撮りに来ていた。

🚩ガイドの「田中」さんは、この向かいの築180年の古民家。

🚩日本一ふるい時計屋さん
「新光時計店」
“時計の名医”「新光時計店」
ほかの時計職人なら匙を投げる、難しい修理もしてくれるというので、“時計の名医”として全国に知られている
その時計職人こそが、「新光時計店」4代目の松浦敬一さん。大崎下島(おおさきしもじま)の御手洗(みたらい)地区で、🚩150年以上の歴史ある店を受け継ぎ、時をつないできた人です。 
港町として栄えた御手洗は、交通の主役が自動車に変わると賑わいを失いました。島内の顧客が減るなかで、1970年代にはクォーツ腕時計が普及。全国の時計店が軒並み廃業に追い込まれた「クォーツ・ショック」大変だったそうです。
毎朝6時半になるとお店をすみずみまで掃除して、9時には作業机に座って時計修理を開始。ひとつ、またひとつと息を吹き返した時計を、持ち主の元へ送りとどけました。その時計と持ち主が、松浦さんの仕事ぶりを伝え、いつしか「新光時計店」は全国に知られるようになったのです。
🚩松浦敬一(まつうら・けいいち)
1945年11月6日生。御手洗にて、新光時計店三代目・光行の長男として生を享け、二代目(祖父)・哲次に商売と時計技術の手ほどきを受けて育つ。広島市内の商業高校を卒業後、「新光時計店」にて就業。2000年頃から「時計の名医」として全国に知られるようになり、メディアに取材され2015年秋NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」に出演。
かつては遊郭があり花魁道中も行われた御手洗は「海に浮かぶ繁華街」と呼ばれたそう。

https://www.city.kure.lg.jp/soshiki/53/shiseki20-yutaka.html
🚩⬆️乙女座:映画館・劇場
客席は当時のままの畳敷きで、後ろの席には僅かに勾配がかけられています。上手には「桟敷」、下手には「花道」が設けられており、舞台の袖には「黒御簾」、床下には「奈落」と、小さいながらも芝居小屋としての機能が備えられています。
 

GUESTHOUSE醫について


⬆️ゲストハウスレトロな「越智醫院(おちいいん)」の看板が目を引く大正時代に建造された洋館です。

🚩千砂子波止⬇️ちさごはと
https://www.city.kure.lg.jp/soshiki/67/m000253.html

https://tabi-mag.jp/hm0261/amp/
🚩鞆田邸⬆️

広島県呉市豊町御手洗、瀬戸内海に浮かぶ大崎下島で町並み保存地区(国の重伝建)に選定されるのが、御手洗(みたらい)。風待ち湊として栄えた御手洗の歴史ある家並みの中で、珍しい洋館が別宅となるのが、鞆田邸。大正から昭和にかけては、迎賓館のような役割も担った町家です。

御手洗で最大のなまこ壁を誇る鞆田邸は迎賓館としても機能…

野口雨情が泊まった迎賓館は、天井に屋久杉を使っている。

約300年前の建立と伝わる恵比須神社(本殿、拝殿は広島県の重要文化財)一帯は、大雁木 (石段状の船着き場) が築かれ、北前船の荷揚げが行なわれていた場所。
今でも神社前には昔の護岸を見て取ることができます。

幕末に三条実美が身を潜めた「七卿落遺跡」や薩摩藩の船宿だった「脇屋家」、御手洗で最大のなまこ壁を誇る「鞆田邸」など、貴重な建物も残される一角で、呉市豊町御手洗伝統的建造物群保存地区の中心的なエリアとなっています。

幕末に建てられたと思われる鞆田邸の主屋は、江戸末期に、海産物、穀物問屋から鞆田家が買い取つたもの。
主屋の裏に庭園を配し、土蔵、湯殿、2棟の離れ座敷を構え、渡り廊下で 結ばれています。
そして隣接地に別邸として大正末期に鞆田邸洋館が建てられ、昭和11年に野口雨情が滞在し、『御手洗節』が作詞されています。

鞆田邸洋館の向かいの下見張りのモダンな洋館は、大正初めに建築されたGUESTHOUSE「醫」(旧越智医院)で、アニメ『ももへの手紙』では、ももの母親が入院する病院のモデルとして描かれています。

鞆田邸
名称 鞆田邸/ともだてい
所在地 広島県呉市豊町御手洗

🚩満舟寺(まんしゅうじ)
江戸時代の著名な俳人の墓が残っています。
広島県呉市にある満舟寺です。真言宗の寺院で御手洗の町並み保存区域にあります。豊臣秀吉が四国を征伐した際に、加藤清正が築いたとされる「乱れ築き」と呼ばれる大きな石垣は見る価値がある程圧巻なものです。一説には、それより前に来島村上氏が御手洗にある「海関」の警護にあたっていたことから、その警護所として使用されていたのではないかと言われています。平清盛が庵を結んで、十一面観音を安置した地として知られています。境内には本堂や鐘楼の他に俳人の栗田樗堂の墓も残っています。

🚩穴太衆積みの石垣(あのうしゅうづみのいしがき)
坂本地域にみられる特殊な石積みで、「穴太衆積み」と呼ばれます。坂本の一地域である「穴太」の地に住んでいた「穴太衆」と呼ばれる技術者集団により積まれたものです。日吉大社および延暦寺の門前町の景観を作り出す重要な要素となっています。石積みは、加工していない自然石を使うもので、特にコーナーの部分の美しさ、堅固さが特徴です。

🚩今は御手洗…人口600人

🚩若胡子屋跡(わかえびす)
往時の御手洗には、四軒の茶屋 (遊郭) が広島藩から公認されていました。そのうちの「若胡子屋」は周防上関出身で、1724 (享保9) 年に藩から茶屋株の免許を受け、御手洗で最初に開業しました。18世紀後半には50人 (一説には100人) 近くの芸子・遊女を抱える御手洗最大の茶屋でした。
その華やかさとは裏腹に、凄惨な伝説に彩られた茶屋でもありました。「日本残酷物語」で広く知られるようになった「おはぐろ伝説」や、訴訟判決を早とちりした当主の切腹自殺など、悪所を象徴するような話も語り継がれてきたようです。

見所

建物自体は茶屋免許当時のものと考えられますが、入母屋妻入り造りの主屋は、明治期に寺院に転用された際に柱や天井が取り払われ、現在は耐震補強を施した展示スペースとなっています。
別棟の奥座敷は当時の面影をよくとどめ、天井や雨戸などに屋久杉が使われるなど、贅沢な造りになっています。また、庭には、遊女「八重紫の墓」がひっそりと佇んでいるほか、土塀には桜島の溶岩石が塗り込められています。
1940 (昭和15) 年に広島県史跡に指定されています。

施設案内:内部改修工事中
2021年12月より、建物内部の長期復元改装工事が行われており、現在は内部の観覧は出来ません。

🚩旧金子家住宅
金子家 (かねこけ) は、江戸時代後期 (1603年-1867年) 、特に幕末に御手洗町の庄屋として大きな影響力を持った豪商である。作家、芸術家、政治家など著名な来賓をもてなす場として1823年に建てられた。2011年に呉市の有形文化財に指定され、2014年から2018年にかけて改修された後、一般公開されている。

旧金子家住宅にはいくつかの小さな畳の部屋があり、日本の伝統的な茶庭が見渡せる。茶室や水屋は1823年に京都で造られ、輸送のために解体された後、船で御手洗に運ばれ、屋敷内で再び組み立てられた。茶会の参加者はまず庭の石の鉢で手と口をすすぎ、飛び石を渡って中門をくぐり、低い四角い扉から茶室に入る。この扉は、茶室に入るときには客全員が低く頭を下げることを強制しており、茶道では皆が平等であることを象徴している。金子家では、尊い賓客への特別な敬意を表すために、茶室と庭園沿いの回廊を直接つなぐ、やや背の高い2つ目の入り口を造りった。このような特徴は茶室ではあまり見られないものである。現在の茶屋はどちらの入口からも入れる。

広島藩、長州藩、薩摩藩の間に御手洗があり、金子邸は御手洗条約の斡旋など、重要な政治会議の場でもあった。1867年9月、三藩を支配していた大名が同盟を組み、幕府に対抗する計画を練りました。2カ月後の11月26日、広島藩諸兵総督の岸久兵衛と長州家老の毛利匠が会談し、幕府打倒・天皇復古のために江戸に兵を派遣するための具体的な作戦を練った。同日の夜、御手洗から軍艦が出港し、京へ向かった。この会談は後に御手洗条約と呼ばれるようになる。最終的にこの条約は成功し、1868年1月3日には天皇の復権が発表され、明治時代(1868年-1912年)の幕開けとなった。

🚩天満神社
天満神社は、著名な学者・詩人・貴族であった菅原道真公(845~903)が参拝した場所といわれている。

◎道真は、京都から九州に向かう途中、御手洗に立ち寄り、井戸で手を洗ったといわれている。このエピソードが「御手洗」の名の由来となっている。

道真公の死後、道真公は学問と文筆の神様である天満大自在天神として祀られている。1755年、御手洗で最初の天神様を祀る神社が満州寺の境内に創建された。

1871年(明治4年)、道真が手を洗ったとされる井戸の横に新たな社殿が建てられ、満州寺にあった像が現在の天満神社に移された。現在の社殿は、大正6年(1917年)に御手洗の住民の寄付により建てられたものである。

神社の入り口には鳥居が立っており、神聖な空間への入り口となっている。桜並木が続く参道の左手には、参拝の際に手や口を洗うための伝統的な洗面台がある。

この洗面台は大きな硯のような形をしており、学問や書物との関わりを象徴している。
洗面台の横には、天神様の神社でよく見かける、使い古された書道用の筆を記念して作られた「筆塚」がある。
その右手には、道真公の詩が刻まれた大きな石碑があり、道真公の人生にお世話になった人々への深い謙虚さと尊敬の念が込められています。

🚩また、御手洗生まれの冒険家であり、明治35年から明治36年にかけて自転車で世界一周をした中村春吉(1871-1945)を讃える石碑がある。

🚩参道から階段を登っていくと、天神様が祀られている拝殿と本殿がある。本殿の下には、道真公が手を洗ったとされる井戸があり、境内の奥へと続く「可能門」と呼ばれるトンネルがある。
可能門をくぐると願い事が叶うと言われていますが、参拝者は一回の参拝で一回しか願い事をすることができない。

🚩また、この井戸の水を使って、新年の初めに縁起の良い漢字を書くと、書道の腕が上がるとも言われている。

https://www.city.kure.lg.jp/site/bunkazai/siyubun-15.html
🚩⬆️旧高橋家(屋号:柴屋)

 大長村庄屋役及び御手洗町年寄役を代々勤めた高橋家(屋号柴屋)の別宅の一部です。
建築年次は文化3(1806)年で,伊能忠敬が大崎島の測量をした際に宿舎にしたと伝わるのでそれ以前と見られますが,大きく遡るものではありません。

 🚩別宅は2つに別れていて,本住宅が向座敷となっており,常盤通りを挟んで向かいが母屋でした。
「伊能忠敬御手洗測量之図(呉市指定有形文化財)」の右側にこの向座敷が描かれており,土塀で囲まれた広々とした庭にはあずま屋や池が配され,豪著な造りとなっていました。
🚩広島藩主が遊覧のため来島した際にここで休憩しており,本陣として利用されていました。

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このあと記念写真を撮って、向かいの愛媛県岡島からフェリーで大三島に渡って、しまなみ街道〜宇多津町へ18:10予定通り帰りました。

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