出雲大社(いづもおおやしろ) 島根県出雲市大社町杵築東195 #島根県 #出雲市 #出雲大社 #神社 #観光 #歴史 #しめ縄 #国宝 #神話 #大国 #名所 #大社 #縁結び #だいこくさま
出雲大社(いづもおおやしろ) 島根県出雲市大社町杵築東195 #島根県 #出雲市 #出雲大社 #神社 #観光 #歴史 #しめ縄 #国宝 #神話 #大国 #名所 #大社 #縁結び #だいこくさま 20240504 3 @akibingo
出雲大社の創建
出雲大社の御祭神・大国主大神様(だいこくさま)は、神代の昔、国づくりのため人々と共に国土を開拓なさいました。それとともに、農耕・漁労など山野河海の生業、医薬禁厭の法などをお授けになられ、人々の日々の暮らしのすみずみに至るまで幸せの種蒔きにお励みになりました。こうして、大国主大神様は国づくりなされた国土を御皇室の御祖先の天照大御神様に〝国譲り(国土奉還)〟なされ、目に見えない世界の幽事(かくりごと)・神事(かみごと)の主宰神、神々の世界をお治めになられる大神として、壮大な御神殿にお鎮まりになりました。
その御神殿は、広く厚い板を用いて御造営され、太く長い御柱は地下の岩盤に届くほどに地中深く突き固められ、御屋根に掲げられる千木(ちぎ)はたなびく雲を貫くほどと、その壮大な様が『古事記』(712)・『日本書紀』(720)に記されています。
また、『出雲国風土記』(733)には、「国づくりをなされた大国主大神様を〝天の下造らしし大神〟と称え、大神様のお住まいを多くの神々が集われ築かれた。それゆえに、この地域をキヅキと名付けられた」と、地名起源の由来に御神殿の御造営が語られています。また別に壮大な御神殿ゆえに、長い長い測り(天御量)をもって御造営されたことなどが記されています。
「天の下造らしし大神」と称えられました大国主大神様の御神績とお住まいの御造営につきまして、我が国の様々な古典にその様子が記されているのは出雲大社に限られたこと。出雲大社の御造営に関わります古代の古文書記録には、「天下無双の大厦、国中第一の霊神」と称えられています。
金輪の御造営
出雲大社の伝えによりますと、古くは御社殿の高さは32丈(約96メートル)、その後、16丈(約48メートル)もあったと伝えられます。あまりにも巨大であるため、3本の材木を合わせて1本の柱をつくり、それを金輪で束ねるという構造を描いた図面です。
平成12年春、拝殿北側の地下工事中に、そうした御本殿の巨大な御柱が顕現しました。それは直径約135センチの杉の巨木3本を束ねて1本の御柱とした状態で、「金輪御造営差図」に描かれた通りでした。
平安時代末期に参詣した寂蓮法師は、「出雲大社に詣でみ侍りければ、天雲たなびく山のなかばまで、片そぎの見えけるなん、この世のこととも覚えざりけるに詠める。〝やはらぐる 光や空にみちぬらん 雲に分け入る千木の片そぎ〟」とその壮大な様に感歎して詠じました。
寄木(よりき)の御造営(1115年)
天仁3年(1110)7月4日のこと、出雲大社の近くの稲佐の浜辺に長さ10丈(約30メートル余)の巨大な大木約100本が漂着しました。同じ頃、因幡の国(鳥取県東部)の上宮近くの海岸にも、長さ15丈(約45メートル)、太さ1丈5尺(約4.5メートル)の巨木1本が漂着しました。因幡の国の民がこの巨木を切ろうとしますと大蛇が巻きついており、驚き逃げ帰りましたが、病にかかりました。そこで、いろいろ祈祷を行ったところ、上宮の神様の託宣が現れました。「出雲大社の御造営は、諸国の神様が受け持たれて行われる。今度は自分の番であり、すでに御用材は納めた(つまり、これが稲佐の浜辺の〝寄木〟です)。
この伝承は、「国日記云」として古代の文献に載録されているものです。〝寄木〟によって、永久3年(1115)の御遷宮御造営がおこなわれました。
当社の御本殿の御造営は、斉明天皇の御世、今日のように高さ8丈(約24メートル)、方6間(約10.9メートル)四面の宮制となり、後にこれ以上を「正殿式」といい、これに満たないものを「仮殿式」というようになりました。
仮殿式造営遷宮の時代
やがて時代は武家の支配する世となりました。しかし、鎌倉幕府の法律書の『貞永式目』にはその第一条に「神社を修理して御祭りを大切にすること」と規定され、この最初の武家法の趣意は以後の室町幕府法、戦国大名分国法、江戸幕府法に至るまで踏襲されました。
他方、戦国時代末期の境内には、大日堂、三重塔、鐘楼なども建立されていました。中世期は神仏習合の最も盛んな時代でしたが、当時、その本拠を出雲におきつつ現在の山口県から兵庫県に至る領域を支配した尼子経久は、戦国の厳しき世の有り様にあって神仏を篤く信仰し、出雲大社の御造営に心を結びつつ仏的寄進をも行いました。現在、尼子経久が寄進した境内建物のうち、三重塔は国重要文化財として兵庫県の名草神社に、鐘楼にあった鐘は国宝として福岡県の西光寺に現存します。
寛文の御造営(1667年)
戦国の世も徳川幕府の支配する世となり終息しました。大きな社寺の御造営普請には幕府の許可が必要でした。そこでお仕えする当時の社家の人々は出雲大社の伝統、神学、教学を積極的に幕府や藩に説き続け、さらにそれまで続いた「仮殿式」の御造営から本来の姿にと交渉を重ねました。400年の時を経て「正殿式」として復活させ御造営いたしました(つまり、16丈の御本殿に比すれば、床下の柱部分が短くなった形となります)。
また、この御造営にあたっては、戦国時代末期の尼子氏寄進により境内にあった仏的施設を近隣の寺院に下げ渡して、全国で最も早く「神仏分離」を実現するなど、この御遷宮御造営は出雲大社史上に画期をなすものとなりました。
この御造営には逸話があります。幕府政権の確立は3代将軍徳川家光にあたりますが、なかなか世継ぎの誕生がありませんでした。そこで家光の乳母として有名な春日局は松江藩に代参を命じ、世継誕生を大国主大神様に祈願しました。すると翌年、後に4代将軍となる家綱が誕生したため、家綱は大国主大神様の〝申し子〟と言われました。こうして寛文御遷宮は、家綱の治世下にお仕えされました。
延享の御造営(1744年)
寛文に続き、延享に御遷宮御造営されたのが現在の御本殿です。
平成の大遷宮
昭和28年の昭和の御遷宮から60年目の節目となる平成25年に御遷宮を執り行うべく、平成18年11月15日に「出雲大社御遷宮奉賛会」を立ち上げました。
御本殿千木の解体作業
平成25年となり、いよいよ本殿遷座祭の諸準備が佳境に入る中、畏くも天皇陛下より御遷宮に対し御下賜金を賜り、宮家・旧宮家より本殿遷座祭への神饌料を賜りました。
宝物殿 古代御本殿の心御柱
御本殿及び瑞垣内の諸社殿に続き、その後も大神様と由縁ある神々がお鎮まりになる御社殿の御修造遷宮等事業は続き、平成28年3月をもって、全ての御社殿の御遷宮御修造をはじめ当初予定の事業は概ね完了いたしました。
当初の事業は平成28年3月末で完了する予定でしたが、工期の延長や新規事業の必要が生じたため、平成31年3月をもって全ての事業を完遂いたしました。
出雲大社と大国主大神
御祭神
八雲立つ出雲の国が神の国・神話の国として知られていますのは、神々をおまつりする古い神社が、今日も至る処に鎮座しているからです。そして、その中心が大国主大神様をおまつりする出雲大社です。
大国主大神様は、広く“だいこくさま”として慕われ、日本全国多くの地域でおまつりされています。大神さまがそれぞれの地域でお示しになられた様々な御神徳は数多くの御神名によって称えられております。
出雲大社-出雲大社と大国主大神
国づくり
その御神名の一つに「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」があります。それは遠く神代の昔、私たちの遠い祖先たちと、喜びや悲しみを共にしながら、国土を開拓された事に由来しており、これが“国づくり”の大業です。
大神様は国づくりの最中、農耕・漁業・殖産から医薬の道まで、私たちが生きてゆく上で必要な様々な知恵を授けられ、多くの救いを与えて下さいました。この慈愛ある御心への感謝の顕れが、一つ一つの御神名の由来となっているのです。
今では広く“えんむすび”の神として人々に慕われていらっしゃいますが、この“縁”は男女の縁だけではなく、生きとし生けるものが共に豊かに栄えていくための貴い結びつきです。
出雲大社-出雲大社と大国主大神
御鎮座の由来
大国主大神様が国づくりによって築かれた国は、「豊葦原の瑞穂国」と呼ばれ、あらゆるものが豊かに、力強く在る国でした。大神様は国づくりの後、築かれた国を私たち日本民族を遍く照らし治める天照大御神様へとお還し(国土奉還=国譲り)になりました。そこで天照大御神さまは国づくりの大業をおよろこびになり、その誠に感謝なさって、これから後、この世の目に見える世界の政治は私の子孫があたることとし、あなたは目に見えない世界を司り、そこにはたらく「むすび」の御霊力によって人々の幸福を導いて下さい。また、あなたのお住居は「天日隅宮(あめのひすみのみや)」と申して、私の住居と同じように、柱は高く太い木を用い、板は厚く広くして築きましょう。そして私の第二子の天穂日命をして仕えさせ、末長くお守りさせます。
この荘厳な御社は天日隅宮を始め様々な名称で称えられてきましたが、現在は「出雲大社(いづもおおやしろ)」と申しております。
いなばのしろうさぎ
出雲の国にだいこくさまという神様がいらっしゃいました。 その神様はおおぜいの兄弟があり、その中でもいちばん心のやさしい神様でした。
兄弟の神様たちは因幡の国に八上比売(やかみひめ)という美しい姫がいるという噂を聞き、みんなで会いに行こうと決められました。 だいこくさまは兄弟達の家来のように大きな袋を背負わされ、一番後からついていくことになりました。
兄弟たちが因幡の国の気多の岬を通りかかったとき、体の皮を剥かれて泣いている一匹のうさぎを見つけました。
兄弟たちはそのうさぎに意地悪をして、海水を浴びて風にあたるとよいと嘘をつきました。
そのうさぎはだまされていることも知らずに、言われるまま海に飛び込み、風当たりのよい丘の上で風に吹かれていました。
そうしていると海水が乾いて傷がもっとひどくヒリヒリ痛みだしました。
出雲大社-いなばのしろうさぎ
前よりも苦しくなって泣いているうさぎのところに、後からついてきただいこくさまが通りかかりました。
だいこくさまはそのうさぎを見てどうして泣いているのかわけを聞きました。
そのうさぎは言いました。
わたしは隠岐の島に住んでいたのですが、一度この国に渡ってみたいと 思って泳がないでわたる方法を考えていました。するとそこにワニ(サ メ)がきたので、わたしは彼らを利用しようと考えました。
わたしはワニに自分の仲間とどっちが多いかくらべっこしようと話をもちかけました。
ワニたちは私の言うとおりに背中を並べはじめて、私は数を数えるふりをしながら、向こうの岸まで渡っていきました。
しかし、もう少しというところで私はうまくだませたことが嬉しくなって、つい、だましたことをいってしまいワニを怒らせてしまいました。 そのしかえしに私はワニに皮を剥かれてしまったのです。
それから、私が痛くて泣いていると先ほどここを通られた神様たちが、私に海に浸かって風で乾かすとよいとおっしゃったのでそうしたら前よりもっと痛くなったのです。
出雲大社-いなばのしろうさぎ
だいこくさまはそれを聞いてそのうさぎに言いました。 かわいそうに、すぐに真水で体を洗い、それから蒲(がま)の花を摘んできて、その上に寝転ぶといい。
そういわれたうさぎは今度は川に浸かり、集めた蒲の花のうえに、静かに寝転びました。
そうするとうさぎのからだから毛が生えはじめ、すっかり元のしろうさぎに戻りました。
そのあと、ずい分遅れてだいこくさまは因幡の国につかれましたが、八上比売(やかみひめ)が求められたのは、だいこくさまでした。