熊本天草 富岡城で御城印頂きました。

熊本 宇土半島から天草五橋を渡って富岡城へ行ってきました。
島原の乱が起こったとき、天草も蜂起して富岡城を攻撃しましたが、落城することができませんでした。そんな歴史を持つ富岡城は2005年復元されていました。
御城印は城内にある歴史資料館で購入できます。
富岡稲荷神社の御朱印は書置きがありました。200円。

富岡城は関ヶ原の戦いのあとにやって来た唐津藩主・寺沢広高が築城したお城です。
富岡城は支城(飛地)なので城代を置きました。
城代は三宅藤兵衛で明智光秀の外孫といわれています。光秀の娘と明智左馬之助の子。
細川ガラシャに養育されていたとか。
細川家から寺沢家に移った経緯としては明智家の家臣だった安田国継が最後に仕えたのが寺沢家という縁らしいです。
安田国継という人物は明智家敗戦ののち出奔し浪人し豊臣家の家臣たちに仕えたり立花宗茂にも仕えていたそうだ。最後に頼ったのが友人だった寺沢氏だったようです。

唐津藩2代目 堅高の代に島原の乱が勃発します。
実態に合わない年貢の取り立てや凶作、キリシタンの弾圧などで島原で乱が起こると天草でも蜂起し一揆が起こりました。
一揆勢は富岡城に攻め寄せました。しかし城は落とませんでした。一揆勢は原城に集結し籠城しました。城代の三宅藤兵衛は本渡の戦いにて討死。寺沢家は改易。

乱の翌年、天草には備中から山崎家治が入封し富岡藩初代藩主となる。城の拡張と整備を行った。
山崎氏の統治は3年で讃岐国へ移封され天草は幕領となった。
代官としてやってきたのは旗本の鈴木重成だった。二の丸建つ像には天草の恩人と称えられていました。天草の復興に命を投げ出した人物です。

23年後、三河国から戸田忠昌が入封してきました。戸田氏は7年天草を統治した後は関東へ移封していきます。忠昌は天草は永久に幕僚であるべきと幕府に進言、天草は外国からの侵略に備えができたとして、三の丸を陣屋として残し他は破却した。城の維持にかかる領民の負担を軽くするための策として評価されたんだそうです。再び幕領となり明治維新を迎えました。

時代は少し遡ります。
秀吉による九州平定後に肥後南半国(宇土・益城・八代)の領主として小西行長が入国してきました。1588年。
宇土に本拠を置き新たな宇土城を築城するため天草五人衆と呼ばれる国衆たちに普請を命じますが拒否されます。
天草国人衆による一揆が起こり五人衆と戦になりました。
同じ肥後国の領主の加藤清正と共に一揆を平定し天草は小西行長の領地となりました。
降伏後は小西行長に臣従した国衆もいましたが、志岐氏は薩摩に逃亡したそうです。
天草五人衆とは、志岐氏、天草氏、大矢野氏、上津浦氏、栖本氏。キリシタンです。
志岐氏は祖が菊池氏で1205年天草郡の地頭職としてやってきた一族でした。
あのアルメイダを招いて布教活動に許可を出したのも志岐氏でした。
天草にキリスト教が広まるきっかけでした。
小西行長もキリシタンですが国人衆とは上手くいかなかったのね。。

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