博多糞尿汲み取り騒動・大正の臭い香り漂うトイレ秘話
こんにちはごんちゃんです今回は死にと いう臭い話です死にの死はうんこで尿は おしっこですまごちゃんもあなたも生まれ てから死ぬまで1日として縁が切れない ものですね日の足平は死因回収を営む人物 を描いた糞尿丹という短編小説で田川賞を 受賞しました作品にあるように死因を組み とる側と組みとられる側との間で様々な 葛藤がありました 今の若い方は推薦便所になりきっています から昔はおしっこやうんこがお金になった と言ったら驚くかもしれません今回の テーマである死命処理という生活行為は 日本が変革の明治から激動の対象昭和初期 にかけて市町村の存亡に関わるほど重大な 意味を持っていたわけ ですうんこの話を20分も語るのかと思わ れるかもしれませんがね調べてみればとも 言えない奥深い歴史があります神経質な方 は花をつまんでご視聴くださいそれでは 戦前戦後の多くの家庭は弁護に死を貯めて それを回収してもらうという生活スタイル から話を進めていき ます言うまでもなく糞尿は肥料になること は誰でも知っています日本では明治20年 1887年に高嶺上吉という科学者が科学 肥料を初めて作っのですがそれ以前は農村 にとっては下越が貴重な肥料でしただから 農家の人たちは尿の一滴も無駄にしないさ せなかったと言います家の外にためおけを 置いてこれに入れるには女性も立って用を 足さねばなりませんいわゆる女の立ち正面 です女性がパンツを履いたのは昭和7年 1932年あの東京のデパート白の家事 以降ですそれ以前は腰巻きだけでした上 半身をほんの少し前にかめ腰から下の着物 をつまんでちょいと擦り上げば用が足せ ましたこの行為は人に気づかれずに世も 足せるので道端でもよくこれが行われてい ました昔は年頃の娘も割合い平気だった ようでこうした習慣は関東より関西異性の 方が盛でし た関西文化を比較的多く取り入れていた福 県の女学生では明治時代には盛に立ち商店 をやっていたらしいことが分かっています 梅原北明の近代社会大驚異全子では明治 41年1908年7月18日付けの東京 日日新聞の記事を紹介していますちょっと 読んでみますタイトルは福岡の女学生の立 証明について内容は福岡県にて女子市販 高等女学校中学校その他中学校教育に従事 するものが去7月14日福岡市に集合し 乱れた学生風気を改める胸の会議が行われ たとありますそして1女学生の立ち商便を 廃止するように2女学生が牛肉店に出入り
することを禁じるの2項が議題になってい ますこのように議題になるくらいですから 目に余るものがあったのでしょう立ち証文 をして堂堂と牛肉店に出会いにして牛の ように飲み馬のように食べる牛筋馬食を するとはやかさがないと当時の学識者たち の品質を勝ったのです明治41年と言えば すでに県立福岡高等女学校女子試案学校 市立の福岡女学院や地士高等女学校現在の 地士女学園九州高等女学校現在の福岡大学 付属若葉高等学校がすでに開校しており この議題に登った生徒たちはその女学校と いうことになりましょうか今考えればあり えない話ですが何しろ当時の生活事情を 考えればこの新聞の記事もまんざら出ため ではないよう ですまた女性の糞尿は男性に比べて肥料と しては価値が薄いと言われていましたこれ についてはジャーナリストでもある明治期 の清掃風俗研究家宮竹骸骨が著書面白半分 に次のように書いています女学校や女工場 の糞尿は男子の尿よりも値段が安いである なぜ安いのかと農民に尋ねてみると女の 糞尿は肥料として男子のよりも高能が 少ないからですというのだそれでなぜ女の 糞尿は高能が少ないか調べてみれば女性の 排泄された糞尿はリが少ないから肥料とし ても分子が気迫であろうかと思うと書いて います法権時代の明治に書かれたとはいえ 女性には失礼の話でこれには科学的な根拠 はなく当時は平塚長や伊藤のたちが夫人 開放を叫んでいた時期です新しい女性に 対する宮竹骸骨の皮肉風死あるいは法権 社会にいた男の反発として書いたものだと 思います少し脱線しましたが肥料としての 資料の説明に戻し ますごんちゃんたちが20代の頃そうです ね昭和40年代後半まで組とり便所の家庭 が大半でした実際令和の今でも組みとり 便所の家庭はありますこの頃は家庭の便所 に毎月1回はバキュームカがやってきて 掃除してくれていましたこの場合の料金は 1人に月60円人数せですから赤ん坊も1 人前に取られていましたつまり夫婦に子供 2人なら240円が掃除量です今のお金に 換算すればおよそ1000円ぐらい でしょうね大家族になれば月2回以上来て もらう場合は1回につき90円今のお金で 350円ぐらいの割増になっていました 結構な出費だったわけでしょうがたまっ たらどうしようもないものを綺麗に持って いってくれたことを考えれば決して高い ものとは思ってないようでした今でこそ 下水の普及率は90%を超えて推薦化も かなり進んでいますが昭和40年代後半の
福岡市内で下水道が完備している区域は わずかに30%ぐらいでしたそしてその 区域では福岡市の調査によれば水洗便所を 設置していた人はわずかに17万人でした 福岡市では推薦への改築費として10万円 を40回払いの無理速で貸し付けることに したのですが申し込み者は思いの他少なく て予算がいつも余っていたと言いますこの 頃はまだ組みとりの習慣が残っていたの でしょう ね昔は掃除をしてもらった上にお金や米 などをもらっていたのですからありがたい 時代でした例えば明治末期の前田市の農家 の組み実例を紹介します組みとるところで ある須崎とどまに出かけて正面だけを組み とり台の方は地士軍の農家が受け持ってい ました1週間に1度の掃除が標準でした けど早く来てくれとの最速があり月に56 回は出かけていまし たいつも早朝の仕事で暗いうちに家を出て 帰ってきて朝食を取っていました車に小を 住んで引いていくのです目的の下の町の 路上に車を置いて小子を2個担いで家に 入りベツから組み上げて車上の大田に入れ ますこれを3回繰り返して2つのオタを 満杯にして約 172.Lの尿を運んでいまし た博多の長家では大体小便を石戸川より東 の前出し箱崎田の農家に大便はそれよりも 遠い春や地士軍の農家に組みとってもらう という2段がが多かったようです遠くから の首取りはタコ車を牛に引かせてやって くる1日がかりののんびりしたものでした こうした農家ではもらったお礼として盆に は自家製の味噌をくには大根などを持って いきました科学肥料が今ほど発達普及して いない昔は農家にとって死にだけが唯一の 肥料でしただけど農村だけでは肥料は足ら ないので当然人口の多い福岡市内の町に出 てきてそれをもらわねばなりませんだから 組みとりはもらう以上は農家はお返しに米 や野菜時にはお金の場合もあったの です本来なら死にを組みとってもらって 綺麗にしてもらった方がお金を払うのが筋 ですがこの頃は全く逆でした農家の方は 毎月お世話する同一の家と組みとり契約を したいということになりますしかし1件 だけでの使用では足りないので2件3件と 複数の家庭を顧客にしたり町と村の契約の 地域もありましたしかしここで問題が出て くるわけです尿はお金になるものですから 団体による契約はとかく欲が絡んで問題が 起こりがちでした言うまでもなく組みとり 料金の問題で掃除をしてもらう方がもっと お金をよせと言い出すのです逆に農家側は
もっと安くしてくれとなりこうした問題は こじで長家側の組拒否農家側の組権譲渡 などもあって紛争が耐えなかったの ですでは組とりのお礼として払う相場は いくらだったのか見ていきましょう もちろん受給の関係運搬距離難易度などで は一定はしなかったものの大体の基準は次 のようでした江戸時代1回の首取りにその 都度支払っていた料金は明治になって年末 にまとめて払われるようになりましたその 料金は博多では1人1年の運行台が米5勝 ないし6勝おしっこの方は少し安く米4勝 あるかないかでしたつまり年末には家族 1人につきそれだけの米かそれに見合う ものが農家からシレとして釣果に払われて いまし た武士の町福岡部は少し安く死にそれぞれ 1勝ほど博多部よりは割安だったようです どうして同じ人間の糞尿なのにこうした差 が出たのかはっきり分かりませんが単純に 考えれば運搬の難易度や契約の優劣が差を 産んだと考えられますしかもこの市女台は 年月が経つと次第に高騰していきました 科学肥料がまだ発達していない時で農家は 少しでも多くの量を集めようと努力します 明治25年頃になると荷車の発達で運搬が 容易になったため死にの値段は一生ほど 上がっていきます他人数を雇う大田や人が 集まる劇場集会所役所公衆便所は農家の 権利争奪の的となったのでし た辻便所と言われた公衆トイレは入札に よって組とり券を獲得するため死因が 欲しいばかりに競争も激化してその入札は 上がるばかりでした大正の初めまでは博多 の町でもくれになるといいえで尿を組み とりに来た百姓たちが1年中もらったお礼 として持し込や大根株など自分の家で作っ たものを持ってきてそれぞれ配っていまし た 大根は大人1人につき約30本ぐらい子供 1人に15本ぐらいが相場だったようです 明治の初めの頃ですおしっこを農家に渡せ ば見返りとして米をもらえるのをいいこと にして正面ツに水を流し込んで8倍の量に し農家に組みとらせたばあさんがいまし た水を増しただけではおしっこの色が薄く なりバレるので口なしの果実を投げ込んで 色をつけ小金色ににする悪字の働くばあ さんですこのように水増しして天秤棒で 担ぐ前後のタゴの量を8倍にして甘い汁を 吸っていたのでこれをハカばあさんと呼ん でいました1人の欲張りばあさんの知恵は 流行って多くのハカばあさんが生まれた らしく野菜の育ちが悪いことから怪しいと 分かってその空くもついにバレましたもう
いつの時代もこういう悪字の働くばあさん じいさんがいるんですよ ね 明治24年9月14日九州を襲った大型 台風2号の影響で収穫前の稲作の被害が 大きくこれを理由に福岡市近郊の農家は 結束して糞尿台の値下げを要求してきまし たただ台風がなくても値下げ運動が起こる のは時間の問題でもありまし たそれは農家の経済知識が向上して経営 合理化を目指して春や田三笠サの軍農家は 肥料組合を結成して肥料の一括購入による 経費削減や農作物へ与える肥料の改善方法 を研究するようになっていましたその結果 腹白の糞尿代が高いことが分かり台風被害 を理由にして掃除舞を2割3部引きにして ほしいと願い出ましたもし承諾できない なら五軍肥料組合の契約により組とりを 一切拒否するという強行なものでし たこれを受けて博多の長家総代が集まって 協議した結果今までお世話になっておき ながらその農家の強制的な要求に腹が立つ ここは断固戦うべしという結論が出ました 長家側でもこれに対抗すべく博多協立肥料 会社を設立しましたそして五軍肥料組合 以外に肥料の買手は多いはずだからよそ 当たろうとなりまた限界などに登記しても やむを得ないとして農家の要求を拒否した のです 値下げを拒否された農家の組み合いはすぐ に今の博多区上五福町になる石戸川沿いの 左門や祇町になる河原町など博多への 入り口に組員を置いて組者の博多入りを 阻止していまし たこれで博多の弁ツボ掃除がストップした のですだからと言って人間の排泄はまった なしです家庭の弁ツボは溢れ出しなんとか しなければならない長家は博多の東北部 箱崎田の農家にに応援を依頼しましたこの 応援で溢れる糞尿を組みとり一時キバを 救ったもののそれでも会者に早く早く来て くれと最速する家庭は100数十個にも 及んだと言いますこの頃の門と河原町 合わせた家庭は300個あまりですから およそ半分の家庭のベツは大騒ぎでした各 家いえとも溢れるばかりの尿に悲鳴をあげ たのですが春の肥料必要時期になっては歩 より一応紛争は解決しまし たところが対象13年になって農家が米の 不売同盟を作ってベカの工場を測ったの ですがその結果が裏目に出て安い大量の 朝鮮前が輸入されてベカは帰って安くなっ たのですこうなると農家は経費削減を嫌が 上にもしないと困るのでその目は組み料金 に向けられたのです米眉も値下がりした今
金が今のままではおかしいと大正13年3 月26日に箱崎海道で福岡市近郊48町村 連合の福岡都市農事改良組合発足式で尿 料金の引き下げが提案解決されて福岡市に 対して現在の料金の半額内は7割引きを 要求しまし たこれを聞いて当時のク福岡市長は農村 からの要求は最もですが我々で半分にする とか1/3にするとか決めるわけにはいか ない組みとる人と組みとられる人との直接 交渉で解決してもらいたいと回答しますが 農民側はそんな曖昧な答えでは困るそれ なら組みとりストライキをするぞと気味 悪いセリフを残して農民は引き上げていき ました結局組みとり拒否で市中に糞尿が 判断して大変だった30年前の経験を 繰り返したくないと協議した結果6割引き にすることが決定しましたこれ以降糞尿 問題は起こることなく時は流れ昭和に入り 現在までに下水が整備されその普及率も 90%になっていますがそれでもまだ推薦 化されていない市町村の家庭における糞尿 収集は概ね20日に1回の頻度で行って いるよう です今ほど環境問題が厳しく問われなかっ た対象時代青南学院がまだ大名にあった頃 創立者の道者学長は福岡の町が大変気に 入っていたそうですただ1つ困ったことは 朝身を清めて学校へ行く途中に組みとり屋 さんに会うことでしたあの独特の周期で せっかくの朝のすしさが台無しになったと いつも嘆いていたそうですとはいえ大正 時代は組全盛時代です毎朝郊外から組屋 さんがどっと入ってきては外人足らずとも 悩まされたものでしょうこれも臭いものが たまるからでたまらぬ便所を多くの人は 憧れましたということで告白における糞尿 端の歴史を解説しましたこの動画が良かっ たと思われたら高評価チャンネル登録お 願いします最後までご視聴ありがとう ございまし た
大正時代、博多の町裏に広がる驚くべきトイレ事情を探る旅に出ませんか?『大正の臭い香り漂うトイレ秘話: 博多糞尿汲み取りからの葛藤』では、大正時代のトイレの歴史に深堀りし、糞尿汲み取りトイレがもたらす葛藤、騒動や当時の生活環境で進化するトイレ事情に迫ります。
▶️ 知られざる博多のトイレ事情の歴史に迫ります。
▶️ 糞尿汲み取りトイレの登場と、それがもたらす社会的葛藤について解説。
▶️ 屎尿を売る人と買う人との交わる複雑な関係に光を当てます。
▶️ 大正時代の生活環境の中で進化するトイレ事情について紐解きます。
▶️ 社会の変遷とともに形成された排泄文化にスポットライトを当て、当時の風景を再現。
博多の街に潜む驚きとユニークなエピソードを通じて、大正時代のトイレ事情がどのように進化してきたのか、その興味深い歴史をお楽しみください。是非、『大正の香り漂うトイレ秘話: 博多糞尿汲み取りからの葛藤』でタイムトリップ気分を味わってみてください!
#福岡市#福岡歴史#九州観光
・ゴンちゃんのツイッター、製作舞台裏など、なにかつぶやき中
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13 Comments
そう言えば子どもの頃はバキュームカーをよく見ていましたが、今は見ないことに気づきました。それにしても屎尿にこんな利権がうずまいていたとは・・!
いつも楽しい福岡の知ら無い時代を詳しく話しを話され大変勉強になります。
ありがとうございます。
昔は、言葉通り、うんこは「黄金」だったんですよね~。
戦時中や戦争直後の食糧難の頃の農家と都会のうんこ事情も知りたいです。
この話題に関しては三島由紀夫の「仮面の告白」の冒頭で、汚穢屋に関する記述があったので記憶に残っています。
では実際にどんな感じだったのか深堀りしてもらって大変興味深かったです。ありがとうございます。
うんこなにげに高価だったのですね
汲み取り拒否🥶恐ろしいです
福岡在住だけど子供の頃は明治生まれの婆さん達がよく草むらでしりまくって立小便していたなぁ💦
この時代「クソの役にも立たない」そのような言葉はなかったのですね。
昭和40年代は、まだ汲み取り式の方が多く、その回収したものは、玄界灘、博多湾を出た先に海洋投棄していたと記憶してます。魚がそれで栄養状態が良かったとか(^_^;)
汲み取り車が来たら、水を流して〜!と言われ、便器にホースで水を流して回収し易くしていたのを覚えてます。
懐かしいもの、①ホース先のテニスボール②バキュームカーのホースが急に動き出す③バキュームカータンクのメーター④職員さんのハーイ水ば流して〜⑤バキュームカーの風上風下😂
今の北朝鮮と全く同じことをでやってるんだなあ・・・。
本当に、人間の欲深さは底知れずだと思わされる。汚物を引き取ってくれるだけでもありがたいのに、それに金銭を要求するとか。
畑に肥溜めの壺埋めてあったね。今は見なくなった時代の流れだね
おもしろい 講談にしたい
今でも!お百姓さんは!大変なのに!昔から!御苦労されていたんですね!排泄物を取ってもらうだけても!感謝なのに!