みいけ御刀めぐり講座(第2回)

皆さんおはようござい ますはいえここ数日寒い日が続いており ましたので今日も大きになったりするん じゃないかなと思っておりましたけども えっとちょっと2回目は無事に実施する ことができてあの良かったと思ってます ほっとしておりますえ今日はお刀巡り講座 の2回目です1回目お休みの方もいら何人 かいらっしゃったんですけれどもえ2回目 の今日からでも十分刀の魅力を学んで いただけると思いますで今日は最後にえ第 3回目1月13日になりますけれども第 13あ3回目のお知らせとちょっと連絡 事項がいくつかありますそれからえこの後 にえま刀旅ちょっといろんなお知らせを あのする予定になっておりますのでどうぞ 最後までよろしくお願いいたしますでは 早速え第2回目の名の町大牟田を知る パート1民家 天民家と題してえ今日も山田先生にお話を 伺いたいと思いますそれでは山田先生 どうぞよろしくお願いいたし ますはいそれでは改めましておはよう ございますえに続きしてえこの講座担当さ せていただきます大牟田施術図書館山田と 申しますえ今日も2時間お付き合いのほど お願いをいたしますはい えっと今回え第2回目はですね刀の町 大牟田を知る三池店三代と三池というお題 をいただいてそれに応じて準備をしてきて おり ますはいでえっと資料はですねあの今日お 配りしてる人あのは え基礎資料ですね このA4縦の資料と あと三家の投稿当初一覧というA3のもの それと指導国室事象履歴というのをご用意 しておりますあのあのあとなおですね前回 ちょっとあのおりしてて特に触れません でしたけれどもあの市の中のえ三池家事の 部分を前回お配りしておりましたあれはま 読んでいただければということでお配りを しておりますのでえご活用いただければと 思いますはいそれではですね今日のお話を 進めてまいりますはいでえっとですね前回 もあのちょっと途中でトイレ休憩取りたい ということございましたので えま11時前後に1回トイレ休憩を取るの とあと え次回以降のご案内いろんなご案内もある ということで最後少しあの早めにえ 切り上げてそちのご案内をするようにし たいと思いますよろしくお願いしますはい それではですねあの えまず今日のレジメでですね1番のところ

大牟田とBKえそもそもまお刀の町大牟田 それからミーケというあの言葉が出て まいりますけれどもそもそも大牟田とは 何かミケとは何かというところをですね なぜ大牟田という呼び方がありまたミケと いう呼び方があるかこれはもうあの皆さん の中には随分お詳しくても釈迦に切望に なるかもしれませんけれどもまおさいの つもりで聞いていただければと存じますで このこの構図っていうのはあの例えば福岡 で行くと福岡という場合と博多とという 場合がございますよねで昔のコマーシャル だと県庁のあるところが福岡で岩先兵の岩 先兵でしたっけ岩先兵のあるところが博多 たいというような言い方をされておりまし たですよねまそれは置いといてまず大牟田 とミケということをまず考えていきたいと いうのが最初の趣旨でございますでま 大牟田の位置っていうのはもうもう皆さん に改めてえ お知らせするまでもないんですけど福岡県 の1番南の橋で東側と南側は熊本県で西は 会を隔てで長崎県島原半島に退治している というな位置にあるというのはもう皆さん 日々過ごされてえご承知のことところで ございますではあのちょっとレジメの方に 行ってですねあの牟とミケを考える中で まずミケというのは何かというとあの事後 の国のミケということですよねえかこ1の ところにお示ししておりますけれども地後 の国のミケでミケというのは何かというと ミケ軍ですよね軍の名前ですよねで軍と いう存在っっていうのは え今の私今現代の私たちの生活の中では あまり意識されない単位かと思います えっと少し前までは例えば高田町は三手軍 高田町だったし山川町や大和軍山川町だっ たしとかっていうことで一応間に県と町の 間に分とかが入るという住所表記はあった んですけれども軍というまとまりというの がうん体操15年ぐらいからかなもう意味 をなさなくなってるかつては地方自治体と しての軍という隊員があったんですけどけ も軍はえ地方自治体ではなくなってあの 領域を示すだけの存在になっていてそん中 からえっと町や村がどんどん死になって いって軍が減っていってもう例えば三軍も 三軍というのはも高田町も宮になって消滅 したということで三軍というのはもう今 ない単位ですねまそういうことでござい ますけれどもでか2のところ見ていただき ますと大牟田は三家の 一部これあの皆さんにとってはひょっとし たら岩間のある現実かなと思うんです けれども今あのまここの辺は新町なんかな

ちょっと北の方にと大大ミケというあの 地域がありますよねなので今の私今生き てる私たちにとっては三が大牟田の一部と いう イメージがないでしょう か大しい大沢三ですよね大当たりですね はいけれども本当は本当は逆でと言い方も 変ですけれどもあの三軍のこの辺一体が 新手軍だったんですねちょっとその辺を次 見 ていきたいと思いますま牟の 一応まこれはあのよその方にご紹介するに こういうを使ってるんですけども大牟田市 っていうのは福岡県のに属する自治体で ありながら探市とか熊本市とかの方があの 福岡県の県庁所在地である福岡市より探市 とか熊本市の方が近いですよねとで直線病 でいくと長崎市と福岡市もあんまり変らん ですよねで大江市もそんなに遠くないです よと いう位置に大してのはありますというのを お示しする時にこの絵をよく使ってるん ですけれどもあのまこう見ていくとかつて マスタープランが九州を大田市のキャッチ フレーズとして九州をつぐ能年とかって いう言い方をしてたのがよく 分かれますねっていう絵でございますで ミケと牟を考えていく中で今ピンクで色を つけてるところが大牟田しですねこれは ちょっと合併前のあの平成の大合併前の 区画であの線を引いてありますので今の線 の引き方とは変わってあるで今黄色つけた のはんどこでしょうか何でしょう かはいこれはえ高田町です今は三市高田町 ですねでこあのまこの当時と言いますか その三市併して三山市になる前は三池軍 三山え三池軍高田街だった領域です従って この今色が付いてるピンクと黄色合わせた ところが元々の右軍ということになり ますで筑後の国っていうのはどういう範囲 かというとこのこの色がついた範囲ですね 小郡からこ南側がえ筑後の国ということに なりますでちなみにあの星印を5箇所つけ ておりますけれどもこの星印は何だと思わ れます か お線言ってますねあのこれはですねミケ テンタの伝承のある土地ですちょっとこの 後詳しく触れますけれどもここどこか 分かります かここは何 でしょう ここが実はフメ ですフメの国部というとこですねで前回の お話の中でえ三軍の国部

村というところで三家天太を生まれて三に 移って格闘に愛しんだというお話があり ましたけど生まれたのはここというのが 定説になってますそれとえ高田町の中に2 箇所大牟田市の中に2箇所の伝承地があり ますそれまた触れてまりますオオのについ ては触れて参りますしえ次回1月のツアー の時にも訪れてまいり ますあちょっとまだ早い なということでちょっと民家軍民家という ところをあの今一度振り返っていきたいと 思いますしあのプリントの方見ていただい てですね あの1番の括弧1括2の下に丸1から丸5 まで触れておりますで丸1の中でミは後の 国の文明ではありますとこれは今申し上げ た通りですただミケは歴歴史上ずっとミケ と呼ばれてたわけではなくてミケと呼ば れる前はミケ3つの髪の毛の経緯ですね ミケという 地域という文明であしそれをさらに遡ると ミキというえこれは国の名前という言い方 をしてますねミキの国という国の名前と いう言い方をしたミキミケミケという風に え年の土地の呼び名は変わってきてますよ ということですねでえマのところでは今後 の国をお示しておりますけれどもこの中で え黄色とピンクが右軍ですけれどもじゃ他 にどんな軍があったのかというとえ丸の ところでお示しております大和軍水軍山軍 三軍浮羽軍というのがありましたあるいは ありますということになりますがえこの6 軍製というのは明治29年1896年以降 のことであってえそれ以前ですね江戸時代 から明治の半ばまではえや軍というのは 上妻軍と下妻軍の2つだったしミ軍という のは美三原山本の3軍であったし浮田軍と いうのは行波と武野の2軍であったという ことでえ明治時代の半ばまであの江戸時代 明治時代の中場までは地保の国は10の軍 で構成されていたということでございます そのうちの1つが三池であったということ でございますじゃその遡って見てえ元々は 3つの家のミケと呼ばれていた土地がなぜ 三家になったのかというのは丸3のところ でお示しをしておりますように民消し系図 の中にあのえ下りが出てまいります研究3 1992年3月13日三軍今山大師祭 言葉に相聞し直面により右手と解消すと いう記載がなされておりましてえ研究3年 に三家から三家に名前を変えたこの軍の 名前を変えたんだということが知されと おりますまあのこの年代とかですねあの 系図の中に記されたことというのは なかなか歴史を学ぶ上ではですねあのえ

手がかりとして はよりかあまり確実でないという言い方を されますけれども一応こういうことが伝え られているということです ねで えま1292年という とねはいもう私たち世代はいい国作ろう 鎌倉幕府ということで鎌倉幕府が成立した のはこの年ですよということで習ってきた んですけど今の若い人は違いますよねはい 今なんて言ってます か言ってます かあそうなんだ今なんかいいいい箱作ろう です1185年にという風に今は一般的に はれて鎌のバックの誠実は言われています まそれは余談ですけれどもまえ1992年 に今田ていうのはなんとこのことが分かり ます かあそうですよねもう分かりますよね3つ の池っていうのはもう皆さん知ってる通り 三池さんの三池宮の周辺に3つの池があり ますねあそこをですね今え一名 今山大師祭 はいどうでしょうね あのうん三には岩山だけと書いてあるて ですねはいで え三さんと呼ばなかったかどうかちょっと 勝はないですね今だけと呼んでいたって いうのはここで分かりますけれど はいあそうですねはいはいで えっと から三に変わったのはそういうことで鎌倉 時代のことである ということが伝えられているとことですね じゃさらに遡っていきますとえっとですね 2から見になったというところはもうあの いつということはないんですけれども4番 のところに攻防式に曰くえこれはもう地合 の国不っていうのの一分がここに乗って いるということなんですけものに時に言う 昔はく一株分家の南に生ずその高さ970 条朝日の影には肥前の国夫軍たの峰を覆い 土日の影には日の国山軍麻麻山を覆いう よって三の国という後人なりてミケという いい今もって命とますという言い方をされ てます えまこれを信用すれば地のの不っていうの が書かれた頃にはえミケという君命に 変わってたということが分かりますでミキ があじゃちょっと5番も行っときましょう かね5番ではこれあてえ蛍光天皇期日本 初期から引っ張ってきてるわけですけれど も蛍光天皇期に18年空き7月秋7月です ねえ地道の国三にたり高田の暗におわし ます時に倒れたる気あり長さ970畳つの

木を踏みてオラす時に人の歌いて曰く朝の 眉の差をはし前ぎ岩たらすもの竿を橋ここ にうらみことこれに解いての玉これ何の きぞ一豆ふはりて曰くこの木はくりなり かつて未だ倒れざるの先 朝日の輝にあたりてはすなわち島山を隠し 夕日の輝にあたりては麻さんを大なり詰み ことなわこの木は親睦なり彼この国を よろしく2期の国とゴスでしとということ が [音楽] え日本初期の蛍光天皇機のとこに指示され ているということでございますで傾向天皇 が おま大きな木が倒れてもこの稽古点の が士の巡行をされた時にはその木はもう 晴れてた折れてたということですけれども その大きな木を見られてご覧になってこの 土地をミキの国と名付けなさいと言われた のがミキの国の始まりですそのミが後の上 になって見てになり鎌倉時代にえ三家さん の上え頂上に3つの池ができたことでえ 三池という風に名前を変えたという流れが え記されてきているということでござい ます月山はですね竹尾渡になりますかね あの歌垣の山ですね結構言割りに有名な あの佐賀県佐賀県の武あたりですはい だからその木 が立ってた頃はものすごく高くて朝日が 朝日がその木にあたると影が佐賀県のま多 あたりまで影がその木の影が落ちたとで 夕日西側から夕日に照らされるとその影は 麻さまで足したといったようなことが書か れているわけですねあの巨伝説とですね はいはいまあのえミケというのはそういう 言の ある地名であるということでございますで えその中で大牟田というのはあの三家軍の 一部であると元々は三家軍の一部であった ということですねあの あのですはいの こと 私のはい はい無駄いうの は牟ではい牟はですね大牟田村自体はです ねもうそうですね中世末ぐらいにはそう いう読み方をしてるんじゃないでしょうか ね三手軍の中に大牟田村というのがあった でえ大牟田村っていうのはもうこの辺の 一角ですねですね はいで え直前は北大牟田村と南大牟田村とかあっ たんですね ででそれが本大田町になりとかという話ね 要はあの元々は全体これ全体が

系で牟っていうのはなかま言わば ちっちゃな村だったんですけれど もま炭鉱が栄えてで炭鉱の本拠地が大牟田 村のところにできてそっちの方が栄えて いったんで ま明治22年 1898年かな明治22年 にあの正町村性が聞か出た時にはあの三町 というのもできたんですけれども大牟田も 同じく町三池町と大牟田町というのができ たんです ねまそうはいでですねあのまその話でいく とでえ大正6年1917年に大牟田町の方 は大牟田市にその後も観光で発展していっ たんでで三池はこの辺ですねこの辺は三池 町のままだったのに大牟田は市になったん ですねま角上になったんですね元々は三軍 の中の ちっちゃな漁村って言うんですかねあの だったところがでかくなってて三より先に しになってで昭和16年にはその三池町を も大牟田市が併合して大牟田今の大牟田の 形ができたというよな流れになっており ます はいはいじゃあですね次先に進んでまいり ますでえ2番の え三カジノ でのとこですねはいでえ民派右手勝の歴史 の中では えま平安時代から町時代の五登記と次にえ 江戸時代の新登記それから現代等という風 にあの区分して指しておりますけれども あのね民家派民家家事といった場合はほぼ あの括弧1の歩期のものに限られますでえ ちょっとそれ見ていきたいと 思いどういう構成でして た ちょっとまあのスライドの方先に進めて おきましょうかはいえっとですねあの ちょっと資料から少し離れてちょっと前の スライドの方を進めておきたいと思い ますでえっと初代三店と三と三派の展開と いう中であの昭和8年に発行された大牟田 市民特本これは今あのえ私たちの大牟田と いうのをですねあのおっしゃっていただき ましたけれどもそれの昔の昔晩と思って くださいあの戦前はえ大牟田市民徳本と いうのが作られてたんですねで昭和8年の 分にはこういうことがあそん中ま ま私たちの大牟田のようなあの福徳本なん ですけれどもその中にいろんなことを書か れてる中の一角に天太屋敷という項目が ありましてえ天太屋敷見ていただきますと 民友天皇の頃民家天体必要という長いパナ があった民軍国部村から移住して高2に

住んでいたその 屋敷跡 失礼しましたえその屋敷跡と伝えられる ものが今でもなお高々にある西と南に深い 溝があり周囲は親に囲まれた小高い丘で ある土地の人はここに家を立つでばきっと 何か不幸があると言い伝えて今に空屋敷の まである夜中にはとてかとてかと土の響き がするともいいまた冬子の置いてあった ところには雪やが積もらないとも言う地雷 行く瞬中今はただ里人の語り草によって わずかにそのおかを忍ぶにすぎないがその 昔一斉をとかした三池天の名がこのや影で 鍛え上げらられたのかと思と無料であると いうことが書かれてんですねであのこの 天体式え次回のツアの中であのお邪魔をさ せていただくことにしておりますで場所は どこかと言います とあかあのまあまあ今書いてあったう高泉 なんですけれど も えこれは昔のですね昔はこんな風でしたよ と今さっきさっきの文章で見たようにあの ま小高い小高くなった野で秋ま秋屋敷の ままであるというようなことが書いてあり ましたけどまさにそういう時代の写真が これですねで昭和14年頃の地図を見ます とこういう状況で描かれておりますここが 天体屋敷ですね でスーパー丸教がこの辺になるのかなで えで実はですねさっきあのここに家を建て たらあの良くないことがあるみたいなこと が何か不幸があると言伝があるということ ですけど今現在は家を建てて人が住んで いらっしゃいますでまその方にお話を聞い ても特段不幸なことは しておりませんということでまそこ安して いるとこですけれども昔はこういう状況で ですねあのま秋秋屋敷であるというのが 言われてた通りですねあの周りに溝が巡っ てとかというの も先ほどの記述の通りですでここはですね 周りよりちょっと一段小高くなってる ところでさらにこの敷地の中の西がもう1 段高くなっているということが昭和10年 の地球に描かれておりますでここが冬子の 後でしたよっていう言い伝えなんです ねでここには雪が降っても積もりません よっていう多様なことであったりこの土地 では夜中になるとト転換とつの音が聞こえ たといったようなことがさき書いてあった わけでござい ます で あのこれは大正15年の地図でございます

けれどもこの中で天体式はここです ねでここあのここに天体式まここがあの さっきやっての高泉ですね国木高泉で合併 前の三池町っていうのも表示されてます町 役場というのがここに描かれてますね えっとここよりちょっと西側になるのかな ここは元の郵便局の後ですよねでここに ちょっと西側に昔の三町役場があったよう で ござれでこのここに天体式があるという 意味合いを考える時にやっぱり ここここ何 でしょうここはですね実 はです全体式はこここすると大魔女 あるいは大魔の館と呼ば れる豪族許可ですねあのメ士の本拠地がげ ていたのがこの大魔女でその一角に大8 大人では今でもですねこうしっかりお祭り をされていて公民館も敷地になりますかね そういったところ です で で あの白組尊師っていうの中身は江戸時代の 大き爆発頃に掲げたと 思われるえ知子があってですねえそれ を戦前にえ書き写したものが大牟田市立 図書館そのコピーが修造されてあます けれどもえその中にですね あのこの大若宮8万宮のことを書かれて おります8万宮 ウスえ西人は鶴八幡宮で え連載は11月2日商事2年せの 田大の指導気し時感情せらしとないという ことでえ三 諸田がその宮は鎌倉の鶴丘八幡宮から感情 してこの大上の一角にお祭りをしたという ことが書れてありますでえなんとかかんと かて変えてやってですね うんちょっとここご注目いただきたいん ですけれども三条の古字宗地下の立ち進展 となし放電に 農地ということが書いてありますでえここ でですね前回のことをちょっと思い出して いただきたいんですけれども天の1つ 目三月宗家というのがございましたその胸 の 同じ家事が打ったたち がこの宮を感情した時にま真剣神に捧げる 件あるいはご身体のような意味もあったか もしれません真剣として収められていたと いうこと がえここには書かれているわけですでもう 1つ注目すべきはここから次のページに 渡るんですけ渡るんですけれどもその後

人定ペンタ現神の 立ちを同時立てまるということ で胸の立ちもあったんですけれど も三天太原始ですね初代三テンタ密の価値 もここに納めましたよということが書かれ て ますじゃあそれがどうなったかというと ですね残念ながら英6年中 九州相談の 説逆とこれを奪いということですね あのま戦国時代に世が乱れた時にあの俗が 押し入ってそのデンタの立ちなんかも全部 見まえてしまったということが国には指示 されているわけ [音楽] ですでもう1つ注目すべきはです ねもう非常に見にくい人申し訳ないです けど神田タプっていうのがこの8あの大 赤み8万ゲにあってその太鼓の金具って いうのはウケテンタが作ったんだよといっ たこともここにちょっともう見えないと 思いますけどそういうことも書いてござい ますということで三手天太がこにしを 構えるというのはやはりあの豪族の 拠点と 道一本に結ば れるというあの本当に刀とか武器を必要と するところの近くにで条件の整ったところ に屋敷を構えたんだなということが理解 できるようなリッチにあるのがこの天体 屋敷ということになり ますはいそれと [音楽] はい でその今の天体式っていうのがここになり ますで大牟田市内にはもう1つをえ右天端 の伝承値があってそれが今からご紹介する お墓ということに はいで大太市内の三手テト伝承値のもう1 つ大技甘木に新手テンタの墓 と長く地元でさえられてきたま行って しまえば石で大きな石があるわけですで これこの写真はですねちょっとあまり良く ない時に取ったんでこうなってますけれど も普段とかりもされお祭りもされており ますかつてはですねあの結界も貼ってあっ たんですけど結界までは最近は測れており ませんけれどもとにかく地元では大事にさ れているお墓 ですまたあの次回見ていきますのでですね はい実際に見られて くまあの破壊石と言われればま破壊石かな とあのえ今のお墓はもう 企画のお墓で作られますけれどもえっと 江戸時代の初め頃までは自然席の冒頭と

いうのも結構あってそういったものに 類するものに見えるということになります はいでは えっとはいえ2番 のの歴のところにまた進んでまいりますで えただ日本島の歴史というのを再び 振り返っ ていただきたいんですけれども あのこの中で初代三テンタ密の時代という のはこの2番の時代になりますそれからえ 3番4番5番6番7番番の時代までですね あのて外あの2家事の本流と呼ばれる ところがですね活躍をしており ますはいでこれまこれもあの前回とお見せ したのと同じスライドになりますけれども え初代天太三代の代表策と代表策とした このえ現在国方に指定されている大デタと 防する8加賀100万国前だけ蔵の名物と いう書き方をしておりますけれどもえこの 立ち が初代 の代表策になります ででこれこのたがこの時代ということなん ですですけれどもえ前回もちょ触れました けれども あのこの時代の一般的な姿というのはこう いう姿なんですけれど も大デタというのはそれに比べると異風な 姿をしているということを前回もお話した けしましたけれどもちょっと今回 またもう一度おふえをしてきたいと思い ますでえこの名物デタは室町時代以来の 名物で足吉明から秀吉に秀吉から前立に 送れてからは同の重第一のものとして空の 覚しを張り以外をかけることができなかっ たものである地民の天端は平安行の頃投稿 と伝えるが所言を行しよる有名の立ちは 本作のみである作は身幅のひどいしのぎ 作りで丸宗丸宗というのを教えましたねで 引き先となり星取り高く踏ん張りのある 立ち姿で大い流れて肌の真体に白く立ち すぐ派がほれごとなりわずかに足がいり口 園が20場となった小峰での波紋のスクで ここですね同時代の一般の柵とは大いに 異なるという評価をされて 全体に身幅が広くて え星ぞり でえ中先が詰まっ てくの頭のように見えることから育先と いう言い方するんですけども切先が育に なるということでこれ はこの時代の一般的な作はま全体にやや 細みで元々の幅さがついてえま腰は一緒な んですけれども先は小さくにでといった こういう姿が一般的な姿と言われており

ますけれどもこれからすると やはり違いが似てれるかと思い ますで前回も触れましたけれどもそういう ことから非常に古いコメト平安時代まず の古い名であり ながら実に力強い姿をしていると一般的に はあのクゴのみのたかな姿をしているん ですけれども大然たというの は武好みの非常に力強い姿をしていると いうことからですね世上なか天下5件の1 つにも数えられるような原泉というのは そういったところから生み出されているん だなと考えており ます はいはいではですねそ先に進んでですねえ 今2の括弧1の丸1が今いた大ベタという ことになりますが鎌倉 時代以降にもずっとこの初代三家テンタの 流れをむ三三家事というのがあの三家の地 で活躍をしを生み出し続けておりますえ その中 で国の重要文化財国の文化財に指定され てるのが先ほどのデタと このこれもせえ前回も少し触れました けれども徳川家康が愛刀としたソの剣これ はあの苦悩山闘将宮ですね静岡市の苦悩山 闘将宮にえご身体の扱いとして収められて い た立でございますでえ前回西田館長も触れ られましたようにですね奥川イエは 1616年4 月何日でし17こないだ大賀で死んました ね 家4月17になんですが18日ですまその 頃に亡くなるでその川の木のここにある時 に家臣の依の続き旧打を召し出してこの あのこの立を愛東がこの立を持ってこさせ てまあの前回も申し上げましたけれども 現代の視点から非人道的なことではあり ますが死刑になった罪人の遺体で試しをさ せてでとても良い切味でしたという報告を もらっでうんさすがな名とであるとこのお なこの立ちの傷先を西に向けて置いておけ と言をなさってお亡くなりになったという ことが記録に残されておりますまそういう 言のある立ちでその後 え山東小部というのは家康大御所が なくなっなれて最初にお墓が作られたとこ これもこの大会でご紹介されてましたかね でで数年経って日法東小部にオになられた という最初のお墓が作られたのがえ静岡市 の九山東小区でございますでそちらには その最初のお墓っていうのもま今でも しっかりお祭りをされてでまご意外は日本 につれているんでしょうけれども今でも

しっかりおえお祭りをされて いるお宮でございますでこの ま日光東小群は世界あの国方世界遺産定 なってますけれども山東小群の電やなんか も方指定をされておりますまそういう ところに納められてい現在も納められて いるということでござい ますであのこれもですね私は鎌倉時代の ところに書きましたけれども平安事態と いう風に評価する人もいますで私は枕時代 と考えておりますけれども提案事体説を 否定するものではございませんので あのとかく非常に古い民の立ちで有名な ものであるとでなおかつ不の重要分割に 否定されている作品の1つということでご 紹介をいたしておき ますでこれ もあのオデよりさらに幅広で本当に力強い 姿ですよね本当に あの男子を終わらした家康 が一生をかけて相を押してめでたというの がよく 分かる風格を備えていると思いますでそう ですねあの隊員がでくとですねこないだ安 の臨の面がありましたけれどもやっぱこの 辺の逸話をですねななんかあの紹介して くれんかなと思い期待しながらタガ見たん ですけど残念ながらこの逸話については もう修了されておりましたですね残念で ございまし た年が欲しい方ですねれと国の文化財に 指定されているのがもう1ふりございます これはこっから割に近い熊のちですね 本明寺に収られている三明の担当で1番上 ですね1番目てこれがま表と裏なんです けどこの一振り が山じゃないえ雲本明寺に収められている え3名の担保でこちらも国の重要文化に支 されておりますで本字というのはどういう おだかご存じでしょう か割に近いのですねよく行かれる行かれた ことは皆さんあると思いますけどもあの 加藤清マをお祭りしてるテですね で熊本班は最初加藤系 が配置されてその後細川に変わりますまし たけれども細川っていうのはあのずっと 加藤清ていうの大事にしてたんですね で細川市の第8代半の成光が この里清の膨大を伴うためにこういう名と を応能されたといったものでござい ますであといくつか作例をご紹介します けれども え国指定の重要文化財国法というのは以上 の3不なんですけれども重要美術品という 認定でも国のえっと戦前から昭和245年

ぐらいまでの制度なんですけれども14 美術品の認定というのを国の方でやって おりましてその重要美術品に認定されて いる担当というのもございますというのが この作例です ねそれと 旧 国法戦前に国法に指定されていたたちとし てはこういう作例があるありますこれは 和歌山市のサスタ彦神社で度小川義宗が その神社に寄進したあの三世の立ちという のがあるますねでこれは戦前非常に大事な ものということで方に否定されきていたん ですですけれども和歌山空中の時に神社 ごと焼けてしまって今こういう焼身の姿に なっているということであの急国法戦前に 国方に指定されていたものはえ戦後の文化 財保護法でも重要文化財にに指定外をされ ているんですけれどもそれはもうあの王子 の姿を失ったということで重要分化題には 指定されておりませんけどもこういった ものもあったということこれでも範のシ ですからねあの八代将軍の宗様 が将軍になる前かもしれませんけどもま うん紀州和歌山の佐田彦神社に本能になっ た立ちというのがありましたということ ですねはいで今あのちょっとここまでし てけにごいますけれども今あの色々なんだ かんだあの国法で重要分化ざたっていう こと言ってきましたけれどもあの日本党の 評価に関わる言葉としてですね今文化財 指定としたは方て重要文化財指定さっき 触れたあの前から終戦直後までの制度とし て重要美術品の人定というのがありました ということでございますで重要文化題との はあの我が国の文化財の中であとても重要 なものの国家的建築から見て重要なものを 重要文化財に指定するということでその 重要文化財の中で世界文化的検地からる 価値の使いものを国防に指定するという ことでございますでえ民家てた民家の作品 が法が1振り需要文化剤が2振り現在ある という状況ですね それと歴史的評価ではですね前回も触れた 教法名物長というのもありますが添加後件 というのはえ前回ご紹介した通りでこう いう評価軸もあるとでもちろん オデンタなんかそういったところに入って きてるということですねっと現在の あのま鑑定期間っていうんですね攻撃財団 法事日本当権保存協会というあの私も所属 してるところですけれどもえそこでの指定 制度鑑定制度というのがあってえその中で は1番トプの指定制度は特別重要当権それ から重要当権特保存当保存当権といった

ような指定鑑定制度があるということでま いつでも上の方がより価値が高い指定鑑定 制度ということになっており ますはいまこの後ですねまたもう 少し確をご紹介していきますけれど もここで一旦トイレ休憩を取りたいと思い ます10分ほどといいますかねあの ま今が10時53分なんで10時 とましょうかねえじゃどうぞあのトイレ 休憩をどう取れてくださいな あのなんか聞きたいこととかあったらあの 聞ていただければお答え私のお答えできる 反響ではお答えをいたしますどうぞで どうぞおロで ください あ [音楽] の [音楽] こ が そうですもちょっと か お T [音楽] い で は こ あ [音楽] [音楽] [音楽] な 前 分になり [音楽] ます [音楽] て はいそれではあの時間となりましたので 続きを始めていきたいと思いますはいでま 日本党の指定とか鑑定の評価としては制度 としてはこういったものがあるとで今まで 報だろうなだろっていう言い方してました けれどもえこういう序列であるということ を改めて えしっていただければと思います でこのお刀はあちょっと記念撮影届書いて ますけれどもあのこのお刀は前回お持ちし たBKテンタ作2作でこれは保存当権と いうことですから指定鑑定の中ではま1番 回の鑑定制度 ま

はいえ広益財団日本美当権保存協会がま 本物であるということは鑑定してくれてる というものになりますこれ は はいこの中ではもう7番この時代にあたる ものでござい ますあこれま公会ではこういった鑑定書を 出してくれてるということですねはい あとこれ触れませんでしたけれどもにえ 教会の認定制度というのがこれもう今やっ てないんですけれどもあのかつてあって こういう認定も取ってますよということ ですねそれとま国法というの がさっき見たようにあの今の文化財保護 制度の中では1番最高級の評価ということ になりますけれどもあのこういう刀剣画法 という 冒険好きの 人読む雑誌があるんですけれど もよく毎月出すなと思う取材する人大変 だろうなと思いながら見てるんですけれど もあのこれはいつだまあの国宝の刀という のを主張された時にですね見ていただくと 分かるように1番最初に大デタがですねだ ま あの 民家に住んでてあのもなかなかお刀に 触れる機会っていうのは普段の生活では ないと思いますけれども刀の世界では民と いうのはそのくらい評価されてるんです よっていうのをですね 改めてご認識いただければというような 雑誌がありましたのですねそういったもの もご紹介をしておき ますとえ先ほど 教会の指定制度の流れ教会の指定の最高法 として特別授業当店という指定制度があり ますけれどもえそういった作例として民家 の方でこういったものがあるというまご 紹介のに届けますけとめておりますけれど も重要当権としてもこういったものが ある にい てちょっとちょっとお待ちくださいねそ はいでえ特別 保存冒険ま各段階のえ指定鑑定がなされて いるということでございますでえっと今 人間国法のお尋ねありましたけれども人間 国法っていうのは作品ではなくてその人の 技を指定する制度ですねな のああえっとですね あの人間国法今今現在はもう刀なかじの方 はおなくなりになっていらっしゃらないん ですけれどもまたそれにあのふさわしい方 が払われればあの認定される可能性はあり

ますであの人間国法という言い方はあの 分かりやすい言い方として人間国法と言っ てますけれどもこれはえ重要向け文化財 保持者っていうのが正式な言い方であの物 を指定する国法と噂を指定する無文化財の 生徒というのは分けて考えてくださいなの であのそうですね うんまあなかなかデタの作品に作品を 作れる人 はまあそうそうそうはいないとは思います けれどもあの人間国法は今現在は刀じゃい ないけれどもあの え人間国法の制度ができてから何人かは 人間国否定されてきたし今後も否定される 可能性はあるということでご理解 くださいはい ででですねあの先ほど新手天太のお墓この 次のえ来月のツアの時におまりにも参り ますけれども うん平成8年のホムにはこういう記事も 載っておりましたのでご紹介をいたします で えこの方は小史郎国光さんでこっからです ね あの現代等のお話に移りますが えっとちょっとその前に こちら の計算 のの投あ投稿投票間っていうのを ざっ眺めておきたいと思い ますで実はですねあの私もこういった形で あの タリ墓地のお話するっていう機会はですね 今まで何回も与えられてきてえその 都度その都度そのご要望に応じて準備をし てきたわけですけれどもえっとこれを今回 ですねあのなかなか に達てるのは新たな見というのは同じの 段やってきてなんか申し訳ないなと思って たんですけど今回あのこだにこういうこと をしてみようと思ってやったなことでこれ はあのこういう投票全集とかっていう本で ココの片地の名をま基本的には全部集めて いるという前提の本なんですけれどもその 中で民派家事に相当するえ名をひてて みようということでやったのがこれで拾っ ていくと この作品があまり残ってない割には記録と してはこのくらいあるというのが今回 分かってですね私自身非常に興味深い成果 が出たなと思っておりますでえこれを見て いくとやはり平安鎌倉南北町村町に渡って ですね多くの中がこの三家で活躍してきた ことが分かります でえ2枚目の方に行くとですね浸透機以降

浸透機が少ないので浸透期以降ということ 言っておりますけれども江戸時代にも行く 分その気で立できている方のがいるという ことですけれどもあのご覧になってわかり ますようにやはり小頭と新動では確実をし ているあ三波三家の 原形というのは小期の末で一旦途絶えたと いう風に見るべきであろうということに 考えておりますでこの新教なあの方明を見 ていきますと 人形に住んでいるという方のかは いらっしゃいますけれどもやはり何かこう 大石の流れであったりとかその人気派元々 の身派で ないよう な感じを受けます ねはいでむしろうそ現代当初ですね刀の町 を大牟田ということを考える時には あの今までルル述べてきた歴史的 に著名な優秀なお刀がえ古来多く生み出さ れてきた土地としての見てということに 加えてですね現代と現在今現に生きて刀を 作り続けている方々 がにしているということがございましてえ 刀の町大といった時には歴史的な部分に 加えてい今今現在刀を生み続けている名と を生み続けている街であるという側面も 非常に大事な側面であるということを考え ておりますでで現在その刀を産み続けて いる一問っというのはご承知のようにコミ や一文ですねコミ指導国道の一問という ことになり ますでここのスライドに戻るわけです けれども えこの方が初代小宮導国光という当初さん でいらっしゃいますでこれも次回のツアー の時にこちらの鹿場見学をさせていただき ますけれども うん戦前あの元々は柳川です柳川のえ5番 火事のケプを 引く柳川班の土用務めていた武藤久という 方 [音楽] の こでお御さんであるということが今の プリントの中ですねえ新東記以降の6番の 国光のところ で品野の神久の子という書き方をされて おりますこの品野の神久というのが武藤久 という柳があのご用を務めた方でその人の 子供でいらっしゃいます でえ聞いたところによりますと元々は柳川 におられたんだけど え千治中戦前か千治中かに然ですかねあの ま疎をし牟に疎するというですね長に疎を

された ということでそれ以来倉長で活躍を出て いるということ にで えでこの写真はあの昭和初期に取られたと 思われるということで史郎国光の息子さん の国春さんこの方も片地でいらっしゃい ますけれどもこ国春さんが後方の方にま こんな写真がありますよて言って送られて 平成8年に候補に掲載されたのがこの 写真でござい ます であの右テンタのお 墓にしっかりと参りをされている姿が映て おり ますはいでえっとですねちょっとプリント の方長めていきましであのこのプリントは ですね先ほど見た本からひっておりますの でこの本というの が1988年昭和63年に出された本なの で今は活躍していらっしゃらない方の名前 ばかりが乗っております で初代の国道さんが6番でその息子さんが 7番と8番の国康さんと国本さんという ことになりますそとお弟子さんとしてで 幸光さんこの方はちょっと私存じ上げない んですけれども うん高田町の絵の裏で刀をされて順に日と いったよ名で刀を作られていったと で初代国のお弟子さんであたというてのが 紹介をされておりますれ とこれは後ではないですけれども福岡の方 で活躍されていますあの非常に現代党とし ては有名で人気なる総ツさという方当初の さんがいらっしゃいますけれどもえその 仙台にあたる総正光 さんも小宮初代小宮史郎密のお弟子さん でしたよといったこともこちではくれて ありましたのでご紹介をしておきますでえ ここにこの本には載っていない現代その後 に活躍を気がしている現代当初の方の作品 で のご紹介をしていきますえ現在活躍されて いるのは片東翔さんが3人でえプリトの2 枚目に写真を載せておりますけれど も泰道さんこの方は本宮は小宮秋道さんと 言われる方ですけれどもえこの方そ水から 小宮総さん2代目の国光それ から国典当初ですねかこ3が国典 当初で当初としてはこの3人が現役として 活躍をされておられますで当職者という ことでですねあの刀に 関わる職についておられる方として同じ コミで の一員であるコ三さんは都市として活躍を

されているそれとあの大牟田市内にはもう 一方都市として松尾政権さんが活躍をされ ているということでえこの5人の方がです ね今年のあの 現代当職 点というそういうまコンクールがあるん ですけれどもこれは日本美術当権保存協会 が開催している コンクールなんですけれどもえこの コンクールでこの5人の方いつでも今年は 受賞をされている ということでございます中でもあの5一家 でされている1番から4番までまあの小 小宮さんのお宅なんで5一家この5一家に ついてはもうあの4人同時受賞というのが ですね初めての解除ということで10月 30日には基調表現訪問をしてですねえ そういった様子が新聞とか広報にも載って おりましたのであるいは覚えて いらっしゃるかもしれませんその時のえ 受賞策がえ今見ていただいている作品と いうことになり ますでえ1番の史郎泰道泰道 東小あの本名は小秋光さんですけれども まま関係でいくと あの秋光さん泰光東生が典と三都の お父さんという で え2代国光当初小宮添水さんは え泰光登小秋道さんの弟という関係になり ますなのでえこの2人からするとこちらは おじさんいう間からのなますでえ今回受賞 されたのは泰道東翔 が 立刀脇差長槍のぶでドラ賞4隻というの 脇差しの作品で取られておりますこれあの えちょっと同じ長さプリントもスライとも 同じ長さにしちゃったんですけれどもあの え本当はあの実物同士を比較すると少し 短い作品でござい ます でえ国光 当初ま価値の作品で優秀賞4席を獲得をさ れており ますで実はあのこの中で 1番すごい書をられたのが社の息子さんで 小はさん国典省で君山省という賞ですね山 省 顔山の省ってあのお方に馴染みのない方は 何それて感じだと思いますけれどもあの 戦後 日本日本の戦後ですねあの抽選後日本島と いうのは非常にえ消滅の危機を迎えており ましたですねGHQがあの民間の武器を 摂取するということでですね日本島という

のはまあまあ ま武器ちゃ武器ですけども あの民間人が持ってる日本党も全部接収し てあの廃棄するという暴挙にGHQが出た ことがあるんですねその時にえ立ち上がっ て心ある人が立ち上がってこれは単なる 武器ではなくてあの日本人のあの精神文化 の象徴としてあるものだ前回最初まで入れ ましたけど精神文化の象徴としてあるもの で古来あの技術的価値もあってあの構成に 伝えていくべきものだ から単なる 武器ではない技術的に評価できるものに ついては え登録をして所持を認めてくれというのを ですねあの訴えていった方の中にあの佐藤 神山という人 の あの山先生のあの本苗字なんだっけ ちょっと忘れましたけど神山君山という あのお2人のあの大関東 家刀を見る人ですね関東家がおられてその もうそのお2人の働きによって今日こう いうえ日本島の文化が伝えられていると いうまそういう厚労者ということでそのお 2人の名前を関したっていうのがあの努力 省とか優秀症とかの上の書としてですね 設けられてありますでその中の分散症を 今回は捉えたというの [音楽] が大変な快挙でありまして あのそうですねあのかつてはこの国密等称 まもう1つの観山省取れたことあります し国典登場も かつて山症も取れたことがございますで 今回は 君山はいはいあの えっとこのコンクールは あのに寄せることを目標にしてる来るでは ないのであのセタに似てるかどうかは評価 の基準ではないです ただしあの今回この国典投書の作品という のはあの現代とまどうしてもやっぱり派手 な波紋が好まれるでこういうグとか長時 特に長時を主体にですねうん華やかな波紋 を焼いたものの方が評価をされやすいん ですけれども今回スハ町の作品であの非常 に高い書これはですね え2番目と言っていいのか3番目と言って いいのかとにかくすごい章なんですねこの この賞をこのスハの菅波長の作品で取った というのは大きな意味があるという風に私 も思っていますですぐ波長の作品っていう のはおっしゃったようにイテンタのあのと してはすぐは長というの

が逃げタの読書特色でございますねそう いう意味では似てるっていえば似てるわけ ですよ [音楽] ねまそごご本人がですねどこを狙ったかと いうのはまたお尋ねいただければと思い ます会えますよね会えないかな分かんない ですねあのイベントのご案内とあったけな じゃまた待はいでえということであのこの あのタフは現代東小さんがま今作った方ね 昨年なり今年なりに作った 新しい作品としては新しい刀なんです けれどもあの下の2人は都市なんで必ず しも新しいではないということで三敏さん のえ研磨の作品は 木作りので努力省一席を取られてます けれどもこれれは半分12年のお刀を解い でその小の技 を審査して努力書を捉えたというですねで 松尾政権さんはこれはあの結果として 新しいお方国典当初とその匠さんである川 国平当初の合作の巻き出しを問いでづりの で優秀小3席を捉えたということでござい ますまこういう [音楽] あのにもうベテランになられた方それから その子さんの世代にあたる若い方も大々 こういうお方がどかを決意で活躍を見せて いるというのがこの大の町のまた歴史的に も刀の町と言えるし現在にも刀の町で あるをです ね認識いたということでご紹介をいたし まし たはいじゃはですねこっからはですね あの重東法と日本島の所持というとところ をですねご紹介をしていきたいと思います で前回あの本物のお方も持ってしてご覧に 入れましたけれどもあのよくああいう風に 日本と私なかああいう形でですね日本と 持ち寄る 機会もあるわけでございますけれどよくそ そういう時にあのよく聞かれるのが警察に 捕まらないんですかっていうことをよく 言われてなんでんで なんで捕まるのかていうのどうしてそう 思うのかが私どもは全く理解できないわけ ですけれどもえはいあななんで持てる かっていうところをですねここでは紹介し ていきますで先ほども少し触れましたよう に あの修正終戦後GHQはもうこう いう我が国の 民間人にはもう武器を持たせないでおこう という方針でとにかく日本島も武器である という観点からもう摂取をしてガソリン

かけて焼いて懐中闘技するといったのは とんでもない暴挙を繰り返していたわけ ですけれどもあのそういった中から先ほど 言ったような経緯で心出しある人たちが GHQを説伏してあの日本島を所持できる を作っていったわけですねでそん中で あのま色々言うとあの混乱するんです けれどもちょっと触れときますと最初は 所持許可制度と いうのを作ってその後あの重当権で所持等 取り締まり 法を作った中でそこ にえプリントにおししておりますけれども 第14条のところで供県の教育委員会は 技術品もしくは国興品として価値のある避 式重法等の公式情報または美術品として 価値のある当権類の登録をするものとする いうえ規定をされました今は登録制度と いうのを作ったんですね で重東法重党所党都島法の中では一般的に やはりあのこれもGHQの言われたところ を尊重してですね一般的に [音楽] あの刀とあの刀剣類とか10とかていうの は一般的に所持を禁止てるこれは誰も持つ ことはでき ないいう定めが一方であのされております それがその第3番に南否とも次の覚悟の いずれかに該当する場合を除いてばUF または権流を所持してはならないと一般的 に所持を禁止しているというのがこの中法 の基本になりますがそん中で例外として 所持 できる あのケース が次の核号の中で撃されているんです けれどもそのうちの第3条第1項6号で第 14条の規定による登録を受けたものを 所持する場合は え除きますよと所持の禁止から除きますよ ということなわけでございますでで私たち が あのこないだ持ってきたように日本党を 持ち歩くことができるというのはあの方が 登録をされているから 所持できるんですね適法に所持 できるでえこないだお持ちした方がは左側 ですけれどもえあれま昭和33年の学東 児島県教育委員会が法力して登録書を発行 しているので適法に所持をできるという ことでございますでまあの右はもう1つ3 分としてあのちょっとこの 登録書の様式が古いのでですねえ今はこう いう様式ですよというとこで示してるのが こちらですねこれ福岡県教育委員会の平成

3年の登録書ですけど今こういう要式に なってますよとこれはあの県の違いという ことではなくてあの時代の違いですね昭和 33年はこういう登録表になったものが今 はこういう登録になってますよという サンプルでござい ます ですはいそう です はいそうです文部省というま文部省の中の 文化庁ですねはいでなんでかって言うと今 14条のところでいましま最初の都県員会 は除いておいてもあの美術え縄式重報の 場合は美術品もしくは骨董品として価値の ある式情報それと美術品として価値のある 貢献率それについて登録をするということ が規定されてますなのでこれはもうあの 文化財保護の大きく見ると文化財保護の 半中での取り扱いということなんですねで 今ちょっと疑問を計されたですね入れて おきますとえ実はもう1つ適法に所持 できる制度ががありますそれは所持許可と いう制度終戦直後の所持許可とは別の制度 とこの合時計で所持等取り締まり法の中で 比例されているのが所持許可の制度とこの 登録の制度この2つの制度もベかで適法に 所持をできるということになりますでこの 登録の制度は先ほどもれたようにこのお方 が登録をされている とこれはもう美品なので持っていいです よっていうことで登録をされているので これはこい持ってきたお方が誰が持っても いいんです ね今はたまたま私が持ってますけれども あの私が持つ前はか他の人が持ってたのを 私が求めて今持ってるということなわけ ですけれどもあの方は誰がっても適に所持 るということそれに対して所持許可の制度 というのはこの人がまちょっと私は許可 持ってないんですけど家に持ってるとし たらこの人はあのま一般的な話でくと行住 とかですね行住とかの所持許可を取ると いうのが一般的なやり方なんですけれども 私があの貨とかしたいと思って行事を 買おうと思ったら私が許可を 受けるで許可をもらったんで鉄砲屋さんに 行って鉄砲を買ってるでそれは適な人よと いうことになりますけれどもじゃあそのて 許可をもらったもらって買ってあ私が仮に え所持許可をもらって鉄砲を買ってきたと してその鉄砲を誰か他の人に預けたらそれ はもうその時点で即違法なわけですねもう そのま相手の人はその所持許可を持って ないということですけどねでそれに対して この登録というのはえ刀その後が登録され

ているんでそ方が誰が持っても大丈夫と いうことになり ますこれあそうですね まこれはあのそこのプリントも向にもう ちょっといろんなことを書いております けども当権分の定義とか いったような こともこの報 所の中ではされているという [音楽] ことであの本当に正許可の制度っていうの がです 昨日の新聞を見てもやっぱどんどん厳しく なってあのいろんな事件が起こるのでそれ でどんどん厳しくなってきている状況では あります ねあもうちょっとあともうちょい時間ので 終わる前にもう少し話しで うんそうですねそともう1つ あまりここまでお話しすると困難するかも しれませんけれども あの人所持禁止の除外規定の中ではですね あの公務員は持っていいんですよねあの 正しいもちろん職務の必要を あの職務の必要所を持つ場合ということに なりますけれどなので例えばですね私は3 月まで公務員だったということ申し上げ ましましたけれども平成9年だったかな あの赤羽党という赤羽党と言ってもめない ですよねあのさっき言ったえ終戦直後に GHQが接収し民間人から接収した当権類 の中で え美術品で美術品として評価できるので 所持を所持して良いという風に判断された お方については 摂取した時の元の持ちに返したんですね ところが元の持ち主が分からなくて中に 浮いてしまったお方なていうのがあったん ですねでそれがえ戦後50年以上東京国立 博物館の一角にずっと置かれたままになっ てたんですけれどもそれを平成8年に法 改正をしあ法改正じゃなくて立法をし て もう1回漢方告示してあの申し出て元の 所有者と分かった人には返しますよとで ある期限あるところで期限を切ってえそこ までに消費者が現れなかったものについて は国のものにしますとで国のものにした中 から一部は地方公共団体に上用しますよっ と言ったような取り組みをされたことがあ ねでえ成9年にあの大牟田島6フりという お刀を頂いて私が担当してあの東京国立館 に取りに行くという仕事をみな担当した ことがありますでそん時はその岡はとと 言って社見たよ登録

をされてないんですねで東京国立作物官も ま公務員であるしの自治体も公務員である から公務員から公務員に渡すので所持禁止 の除外規定に当たるということに登録せず にいただいたんですねなので あのうん今後羽田空港まで運んでいって 預ける時も必ならこういう読書ありますか とかて言ても確認して預かってもらうん ですけれどもその時は登録書はないですね あの国からこれこれれの方を大に上用する という所をいいてたんでそれを持って書に 変えたですねあかたと言ったような ことやったという非常に稀な経験をした こともござい ます でこの辺でちょっと切り上げかと思います けも飛行機に乗る時っていうのがさん不今 預けたというすすっと流しましたけれども ちょっと不思議と思いませんでしが あのあまり空港の係りもそんなにしち 本当持ってくるやつがいるわけではないの で慣れてない人もいるんですねでこっちは ま時々いくからこあの登録書を確認して 預かってあの自ケス特別なケースがあり ますのそれ入れて預かってくれやいいだけ ななでない係りだとなんか警察官なんか 読んじゃってんです [音楽] ね警察官の人もえこれ飛行機持ち込むん ですかていうそれ客室に持ち込めるわけ ないですよねいや預けようとしてるだけ ですよってあそうですかて書いちゃうん ですけどねまそういったこともありました ということでそういうこぼれ話をに触れた ところでえ 後のご案内等もありますので

三池地区公民館で開催された「みいけ御刀めぐり講座」の第2回目です。
「刀のまち大牟田を知る」~三池典太光世と三池~

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